日雇いの勤務先の一つに、「やたらと人当たりのいい変わった会社」(松谷さん)があった。今も続けているコンタクトレンズのちらし配りのアルバイトの雇用先だ。

 街頭で勧誘したお客さんを店に連れてくると、店員たちは「すごいね!」と口々にほめてくれた。顧客を店舗に誘導しても、アルバイトの給与には反映されない。時給1100円。ほかにも日雇いのアルバイトを掛け持ちしても年収は200万円足らずだ。それでも、職場でほめられた経験がない松谷さんにとって、ほめられる体験が仕事を続ける上で大切なモチベーションになった。

「お客さんを案内すると、今もほめてくれます。普通に仕事ができる人という感じで扱ってくれるのが一番うれしい」(松谷さん)

 だが、ちらし配りの仕事にも関門が訪れる。店内の接客をたまに任されるようになったのだ。接客は松谷さんの最も苦手な分野の仕事だ。

 商品を出すのを忘れる。客の住所をきくのを忘れる。漢字が書けない……。毎回予想外の事態が起きる接客をこなすのは難行だった。とりわけ混乱したのは会計だ。
 
 釣銭を間違える。電卓を使いこなせない。同じ計算を繰り返しても毎回違う答えが出てしまう。どこまで計算していたか途中で忘れてしまうのだ。

「倉庫や工場での仕事のときは、こっそり何度も計算して一番多い答えを当てはめていましたが、さすがにお客さんの前でそんなことするわけにはいきません」(松谷さん)

 接客なのに客の表情を気にしている場合ではなくなり、何度も立ち往生した。

 しかし、このとき松谷さんの内面にある変化が生じていた。これまでなら行き詰まった時点で離職し、別の働き口を求めていたのだが、そうはしなかったのだ。

「ほかに行くところがないと思ったんです。ここで頑張らないと逆戻りになる。せめてアルバイトの仕事はこなせるようになりたい一心でした」(松谷さん)

 帰宅すると、仕事中のことを思い出し、「できない記憶」で頭がいっぱいになった。それでも、泣きながら仕事の復習をした。やるべき作業をノートに書きだし、電卓を使って精算の練習をして、電話応対で必要なやりとりの下書きもした。

 そのうち接客の仕事も何とかこなせるようになった。予想外の質問を受けなければ電話応対もできるようになり、優先事項を決めることで計算や釣り銭を間違えることも少なくなった。

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松谷さんが自分の特性と向き合うきっかけとなったのは