小5のときの面談で、担任が松谷さんに何らかの「障害」の可能性があることを母親にほのめかした。母親は現実を受け止めきれず、帰宅後、悲壮な顔つきで「あなた、障害者なの?」と松谷さんに直接問いただした。松谷さんは「私に聞かないで」とはねつけるしかなかった。

 学校に通うのは苦痛だった。しかし、厳格な父親が不登校を許さないだろうと先回りして悟り、言い争いになるのが嫌だったため休まず通い続けた。松谷さんはこう振り返る。

「倒れて救急車で運ばれるぐらいでないと、本当につらい状況とはいえない、そこまでいかないと頑張っていることには入らないと思っていました」

 最大のピンチは中2の冬に訪れた。学校でのいじめが親に知られたのだ。自宅にいたずら電話がかかるようにもなっていた。担任から呼び出され、父親と三者面談を受けた帰りの車中で、運転中の父親がぽつりと言った。

「お前が悪い」

 松谷さんは耳に入ってきた言葉を意味のない「音」として受け流すよう努めた。だが、絶望はどうしようもなく深かった。ただもう「死のう」と思った。
 
 このとき踏みとどまったのは、このまま死んでも母親が苦しむだけ、と考えたからだ。母親は、娘がいじめられている事実を知っても、「娘より自分がかわいそう」と考えてしまうタイプの人だという。

 学校でのいじめは続いた。

 いじめのストレスで、学校ではほとんど話すことができなくなった。自己否定が強いあまり鏡を見られなくなり、いじめを受けた場面のフラッシュバックで不眠が続いた。

 クラスのいじめっ子から毎日のように「死ね、死ね」と言われ続けた松谷さんは、どうせ本気で言っているのではないのだろう、とずっと受け流していた。しかし、ある日、いじめっ子が「そこの窓から飛び降りて死ね」と言ったとき、松谷さんはすたすたと校舎4階の窓際まで近づいた。イライラが募り、そんなに言うのなら死んでやろうと本気で考えたのだ。

 窓に手をかけた途端、そのいじめっ子は「やめろよ」と慌てて制止した。

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