玉城デニーは、1959年10月、中頭郡与那城村西原(現・うるま市)で生まれ、デニスと名づけられた。米海兵隊員の父は、伊江島出身の母がデニーを身籠(みごも)っているときに帰還命令を受けた。帰国後、母子を呼び寄せようと手紙や写真を送ってくるが、母はデニーが2歳になると「アメリカには渡らない」と決め、思い出の品々を焼却した。18歳上の女性にデニーを預け、辺野古のAサインバー(米軍公認の飲食店)に賄い婦として住み込む。月に1度、延々と路線バスを乗り継いで与那城に帰ってきては、デニーに添い寝した。

 そのころ、本土は高度経済成長の光が溢れ、米軍統治下の沖縄では米兵による農婦射殺やひき逃げ殺人、米軍輸送機墜落……と悲惨な事件が続発した。米軍への怒りが本土復帰運動を高揚させる一方、米兵が落とすドルにしがみつかなければ生きていけない現実があった。ウチナーンチュの複雑な情念が日米にルーツを持つ少年に向けられる。

「赤ぶさー(赤髪)」「ヒージャーミー(ヤギの目)」「あいのこー」といじめられた。小学校で半紙に茶碗を伏せて「日の丸」の旗をこしらえた。友人と沿道に並んで復帰運動の行進団に「がんばれーっ」と旗を振っていると、通りかかった大人に「君は振らなくていいよ」と言われた。一瞬、意味がわからなかったが、間をおいて差別されたと知り、全身がカーッと熱くなる。「なんで僕がよ。同じウチナーンチュだよ」と悔しかった。

 打ちのめされた少年を救ったのは、育ての母のまっとうな人間観だった。「トゥーヌイービヤ、ユヌタキヤネーラン(10本の指は同じ長さじゃない。十人十色でいいんだよ)」「カーギェーカワドゥヤンドー、カワティーチハガセーラ、ムルユヌムンヤンドー(風貌は皮一枚でしかない。皮をはがせば、誰も違わないよ)」とウチナーグチで切々とデニーに語りかけた。荒(すさ)みそうな心に小さな命綱ができる。腕白(わんぱく)小僧デニーに明るさが戻った。

 デニーが小4に上がると母が与那城に帰り、一緒に暮らし始めた。母は、息子の名をデニスから「康裕」に改めて家庭裁判所に届け出る。デニーが父親の消息を訊ねても「もう忘れたよー」と語らなかった。「ただ一つ教えてくれたのがファーストネームでした」とデニーは振り返る。瞼の父の手がかりは、ファーストネームだけだった。

 思春期に入ってデニーはポピュラー音楽に目覚め、高校でハードロックにどっぷりつかった。先輩のバンドをまねて、ディープ・パープルやブラック・サバスの曲を演奏し、ボーカルを担当する。ロックの牙城(がじょう)、コザ(現・沖縄市)のホールでシャウトした。

 沖縄のロックシーンは筋金入りである。ベトナム戦争中は、戦場で人を殺した兵隊が大麻を吸ってフラッシュバックし、ステージに突っ込んできた。演奏がつまらないと中身の入ったビール瓶を投げつけられ、灰皿が乱れ飛ぶ。プレーも命がけだ。そこから「紫」や「コンディショングリーン」「マリー・ウィズ・メデューサ」といった名バンドが現れる。デニーは彼らに導かれてステージに上った。ただ、プロを目指そうとは思わなかった。

 高校卒業が迫り、母に「アメリカに行きたい」と打ち明けた。育ての母の長女が結婚して米本土に住んでおり、招いてくれていた。しかし、母は首を横に振る。「だったら大学に行かせてよ」と頼むと、母は黙って目を伏せた。経済的に不可能だった。デニーは働きながら通える福祉専門学校を見つけ、東京に出る。とにかく母から離れたかった。いつも明るく陽気なデニー、その内面ではアイデンティティーの葛藤が続いていた。(文/山岡淳一郎)

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