真藤は特に沖縄にルーツがあるわけではない。小説とはいえ、土地の言葉を使ったナラティブな物語を書いていいものか、逡巡もあったという。それでも覚悟を決め、葛藤を乗り越えることができれば、創作者はどんな時代のどんな土地の物語を手がけてもいいはずだと、自分を奮い立たせた。

「登場人物のエモーショナルな部分や、方言の使い方、薩摩の琉球処分のような史実をオミット(除外)するかたちになっていないかなど、あらゆる方面に配慮しました。でも、批判を恐れて萎縮して、精神的に距離を置いてしまうことは、ヤマトンチュ(本土の人)がこれまで歴史的に沖縄におこなってきた腫れ物に触る態度と変わらない。ぼくはこの小説で世界を変えるつもりで書いた」

 気色ばむような台詞すら口にするこの作家は、一体、どんな人物なのだろう。
 真藤は東京都品川区に生まれた。父親は政党機関紙につとめ、その後は党の要職もつとめた。母親は看護師団体の役員をしていたこともあり、ふたりは沖縄への交流を目的とした船旅で知り合った。

 子ども時代、本からは縁遠かった。家に世界文学全集はあったが手をつけたことはない。むしろ漫画に夢中で、手塚治虫の『火の鳥』などの長編漫画を耽読し、漫画家を目指していた。「小説を書く上で基礎教養やドラマツルギーといったものは、手塚作品から学ばせてもらった」と言ってはばからない。高校時代はやんちゃな不良グループとつるみつつも、「ゴッドファーザー」や「グッドフェローズ」などの映画を貪るように観た。

 大学に入ってから映像制作グループに所属。監督・脚本を担当した作品は登竜門的な賞も獲得、「とにかく創作や表現で食べていくことしか考えていなかった」。
 大人数の都合を合わせなければならない映画制作よりも、一人でできる小説家になろうと目標が定まると、猛然と書き出した。27歳のときだった。働いていた映像制作会社も辞めて、小説を書くことだけを生活の中心に置き、ありとあらゆる新人賞に投稿する生活を3年間ほど続けた。

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アパートに3年間、こもりきりで書いた作品は