「完全な姿が見られるようになった、と喜んだのも束の間でした。30年近くかけてつくられた施設が一夜で焼け落ちるなんて……」

 首里城から数キロの西原町に住む波照間さんは、10月31日早朝のテレビニュースで火災を知った。その4日後に話をうかがった際、波照間さんは火災後、首里城にはあえて近寄らないようにしている、と明かした。

「喪に服するような思いがあり、心の準備が整わない、というのが正直な気持ちです」

 ただ、失望に打ちのめされているだけではないという。

「沖縄の人たちは今、首里城復元に向けて力強く立ち上がっています。これも、自分たちの文化に対する誇りを首里城が根付かせてくれた、この30年の成果だと思います。不幸の中にあって希望だと感じています」

■琉球のシンボルだったが沖縄だけの宝ではない

 1924年に沖縄を訪れた伊東忠太は、首里城保存の意義について「実に我が国の……否世界の学術の為の重要問題」と唱えた。そして今、波照間さんのもとには、海外の研究者仲間からも首里城焼失を惜しみ、復元を切望する声が相次いで寄せられているという。波照間さんはこう確信している。

「首里城は沖縄だけの宝ではない。そのことは、次に復元するときも決して忘れてはいけない」

 那覇市が首里城再建支援のため、火災翌日の11月1日からインターネットを通じて始めた寄付額は8日時点で4億円を超えた。

 こうした支援の広がりについて、鎌倉芳太郎の評伝『首里城への坂道』の著者であるノンフィクション作家の与那原恵さん(61)はこんな感慨を示す。

「首里城はいろんな意味で琉球・沖縄のシンボルだったと思いますが、沖縄の人々だけのものではなくなっていた、ということを今回あらためて実感しました」

 正殿などの一般公開が始まって以降、多くの観光客が首里城を訪れ、00年の九州・沖縄サミットの晩餐会も開かれた。首里城が広く知れわたるにつれ、アジアの国々と交易し、約450年間にわたって独自の国際的地位を築いた琉球王国の足跡も国内外で再認識されるようになった。与那原さんは言う。

「首里城再建に支援が集まっているのは、単に一地方の文化財の再建という位置づけだけではなく、小国でありながら英知によって外交を展開し、アジアの多様性を採り入れた独自の文化をはぐくんだ琉球王国のあり方への共感の表れのように感じています」

 かつて首里城正殿に掲げられた大鐘には、「万国の津梁(しんりょう)となり……」と琉球が世界の架け橋となる決意が刻銘されていた。大国に翻弄され続ける沖縄が希求する平和のシンボルとして、首里城は再び復元される日を待っている。(編集部・渡辺 豪)

AERA 2019年11月18日号

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渡辺豪

渡辺豪

ニュース週刊誌『AERA』記者。毎日新聞、沖縄タイムス記者を経てフリー。著書に『「アメとムチ」の構図~普天間移設の内幕~』(第14回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞)、『波よ鎮まれ~尖閣への視座~』(第13回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞)など。毎日新聞で「沖縄論壇時評」を連載中(2017年~)。沖縄論考サイトOKIRON/オキロンのコア・エディター。沖縄以外のことも幅広く取材・執筆します。

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