■修復費を捻出できずに荒廃が進む首里城に関心

 鎌倉は大正末期の首里城取り壊しの危機を救っただけでなく、今回の火災で焼失した正殿などの戦後の復元に多大な貢献を果たした、首里城を語る上で欠かせない人物なのだ。

 鎌倉の足跡をたどろう。

 香川県出身の鎌倉が東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業し、沖縄県女子師範学教諭兼同県立第一高等女学校の美術教師として沖縄に赴任したのは1921年。22歳のときだ。首里の王家を始祖とする座間味家に下宿した2年間、琉球王朝が築いた文化・芸術研究に没頭。首里の人たちが日常使う「首里言葉」も体得した。

 鎌倉は、修復費を捻出できずに荒廃が進む首里城にも強い関心を寄せる。波照間さんは当時の沖縄の状況をこう解説する。

「日清戦争(1894~95年)以降は特に、沖縄で中国的なものを排除し、純日本的なものの価値を称揚していく流れが顕著になりました。そうした中、首里城も残念な評価を受けることになったのです」

 明治期の「琉球処分」(1872~79年)によって日本に組み込まれた沖縄では、日本との一体化を推進する政策が図られていた。明治末期以降は、首里城内に沖縄県社を創設する案が浮上するとともに正殿の取り壊しが検討されるようになる。

 1923年6月、いよいよ首里城の取り壊し作業が始まった。東京でこの動きを知った鎌倉は、師であり共同研究者でもある東京帝国大学教授の伊東忠太(1867-1954年)に報告。伊東は内務省に保存の重要性を訴え、取り壊しの中止を要請。内務省の「取り壊し中止命令」の電報が沖縄県庁に届き、本格的な取り壊しは寸前で回避された。

 鎌倉は大正末期の24年4月、財団法人啓明会から「琉球芸術調査」の補助を受け、再び沖縄に赴く。東京美術学校助手として1年半近く、琉球国王だった尚(しょう)家ゆかりの所蔵品などを調査、撮影した。このときの調査と1926~27年にかけて行われた第2次調査によって収集されたのが、冒頭の「鎌倉資料」だ。

 鎌倉が東京に持ち帰った資料は戦時中、都内の自宅敷地内の防空壕や東京美術学校に保管し、焼失を免れた。この資料が、沖縄戦でほとんどの資料が灰燼に帰した戦後の首里城復元に決定的な役割を果たす。

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「この資料があれば復元できる」