世彰は16年、社会貢献に特化した村上財団を創設し私財を投じた。絢はその理由をこう語る。

「父は投資をした先の企業が健全な経営をしているか、株主が企業を監視・監督する『コーポレートガバナンス』を提唱してきました。株主と経営者が建設的な緊張関係にあってこそ、健全な投資や企業の成長が担保でき、株主はリターンを得て社会に再投資できる。しかし、この日本の上場企業が抱える資金循環の問題が解決するだけでは、日本経済の持続的な成長は見込めない。企業の取り組みだけでなく、非営利活動法人やソーシャル・ビジネスへの支援を通じて、どんな立場の人にもセーフティーネットがあり、必要な支援を受けられ、安心して暮らしていける社会環境が必要だと実感したのだと思いますし、私もそう思います」

 世彰は投資家の資質というのは「3割がDNA的に受け継ぐもので、7割は経験」と言い切る。そして、自分は、その3割を占めるDNA部分を父(絢の祖父)から受け継いだと語る。絢が幼い頃から、村上家では家族で食事に出かけると、最後に今日の食事代がいくらだったか当てるゲームをするのが習慣だった。食事の値段と、それに対する料理やサービスの質とを、常に頭の中で天秤にかけて考えるためだ。

 絢が11歳の時。父が官僚を辞め独立。後に「村上ファンド」と呼ばれる投資会社を設立した。その後、自宅が「六本木ヒルズ」に隣接するマンションに変わるなど、今まで以上に裕福な生活環境になった。この時、絢はこの先、本当に大丈夫だろうかと不安を覚えたと回想する。官僚時代から父は働きづめで学校や勉強のことは母まかせ。それをいいことに絢は自由に、伸び伸びと育った。ただ、当時、通っていたカトリック系の女子校は規律が厳しく、思春期を迎えた絢には窮屈な場所だった。中学時代の同級生・堀越理沙があるエピソードを教えてくれた。

「エネルギーが有り余っていたんですね。やりたいことがたくさんあって、保守的で規則や伝統を重んじる先生を困らせていました。自由な環境を求めて授業中に『liberty(自由)』と叫んだりしていましたね」

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一時帰国の飛行機で見た仰天のニュースとは