実践、行動を伴わない政治家や、学者、マスコミ人が上から目線で説いても空虚に響く理想論だが、子どもたちと汗だくで楽しむ太田の言葉だと、うそ臭くない。2年前の夏、31歳で日本フェンシング協会の会長に就いた。「ベンチャースポーツ」と位置づけ、起業家精神で改革の旗を振る。異業種のやる気に満ちた人材を副業・兼業という形で引き入れる戦略は、終身雇用の崩壊、働き方改革が話題になる時流に沿う。その組織運営はマイナー競技団体が補助金に頼らずに自立する知恵とヒントが詰まっている。年功序列や派閥主義が幅を利かすスポーツ界に、新風を吹きこんでいる。

 虚無感を胸に刻む一枚の写真がある。

 2013年、東京・国立代々木競技場で行われた全日本選手権の男子フルーレ決勝を写した遠景だ。10カ月前のロンドン五輪団体で太田と銀メダルを分かち合った千田健太と三宅諒の激突にもかかわらず、無観客試合を思わせるほど空席が目立った。

「五輪でメダルを取っても、閑古鳥。メジャー競技になれるなんて幻想にすぎなかった」。フェンシングはマスクをつけて戦うから、選手の表情はおろか、顔もわからない。ルールも複雑。それにしても、その日の観客150人は寂しすぎた。

 会長に就任後、すぐに全日本選手権の刷新に手をつけた。初年度は、3日に分散していた男女6種目の決勝を1日に集約し、館内ラジオ、VIP席の導入など21項目の新機軸に取り組んだ。総入場者は前年の5倍に増えた。昨年12月は、ジャニーズの「聖地」と呼ばれる東京グローブ座での開催を実現した。DJとダンサーが音楽で盛り上げ、選手や審判の心拍数を表示する仕掛けを盛り込んだ。S席5500円と強気に設定したチケットは、約700席が発売から40時間で完売した。お金を払って見に来てもらえるエンターテインメントへの脱皮を図った。

 私と太田の出会いは15年前のアテネ五輪にさかのぼる。ギリシャ駐在だった私は、日本から来た同僚記者が競泳、陸上、体操、柔道など日本のメダル有望種目の取材に専心するのをよそに、マイナー種目をハシゴして回る日々。1896年の第1回近代五輪で実施された9競技の一つであるフェンシングも、その一つだった。3回戦で敗れた太田は18歳ながら、語彙が豊富で、よどみなく自分の思いを伝える能力が印象に残った。「対戦したロシア選手は前年の世界ジュニア王者」「事前のロシア合宿で研究された」「4年後の北京五輪に向けて」をスラスラ、ハキハキと口にした。

 スポーツ記者の仕事は、選手に「なぜ?」「どうして?」を問いかけ、そこから物語を紡いで読者に届けることだ。寡黙だったり、表現が苦手だったり、選手の個性はさまざま。太田の場合、試合の感想、分析、今後の目標など、コメントに試合経過をはめこめば、そのまま記事ができあがった。鋭い眼光に意志の強さを宿す少年が成長する軌跡を追いかけたい。そう感じた初対面だった。

 起承転結があり、理路整然と話せる素養はなぜ身についたのか。小学校教諭の両親の元で育った家庭環境を探ると、見えてきた。(文/稲垣康介)

※記事の続きは「AERA 2019年11月4日号」でご覧いただけます。