テイクバックの際に右腕が右足の太ももにあたり、ボールの握りがずれたのか、奥川のスライダーが高めに抜ける。それを履正社のスラッガー、井上広大が逃さなかった。バックスクリーン左に飛び込む、逆転3ランを奥川に浴びせた。

「四球を出さない投球が自分の持ち味で、細心の注意を払っていたんですが、二つ連続で出してしまった。(本塁打の一球は)明らかに失投でした。これも野球の神様が与えてくれた課題なのかなとプラスにとらえて、これから精進していきたい」

 星稜は7回裏に同点に追いつくも、8回に再び突き放された。3対5と敗れ、北陸勢初の深紅の大旗には届かなかった。真っ黄色に染まったアルプス席に向かう奥川に、予告した涙はなく、むしろ晴れやかな表情をしていた。しばらくして、スタンドにいた中学時代の恩師からねぎらいの言葉が飛ぶ。すぐそばでは小学生時代から10年以上もバッテリーを組む山瀬慎之助が嗚咽を漏らしていた。ついに、奥川の涙腺も決壊した。

「こらえきれなくなりました。改めて自分は、多くの方の支えがあって、野球ができていたんだなと実感しました」

 1979年夏の箕島(和歌山)との延長18回の死闘や、92年の“ゴジラ”こと松井秀喜氏が5打席連続敬遠された明徳義塾戦など数々の名勝負を演じてきた星稜は、またしても敗者として甲子園に伝説を刻んだ。(文中一部敬称略)

(ノンフィクションライター・柳川悠二)

AERA 2019年9月2日号