Robert Campbell/米・ニューヨーク市生まれ。日本文学研究者。国文学研究資料館長。東京大学名誉教授。専門は近世・近代日本文学。編著に『ロバート キャンベルの小説家神髄』ほか(撮影/写真部・小山幸佑)
Robert Campbell/米・ニューヨーク市生まれ。日本文学研究者。国文学研究資料館長。東京大学名誉教授。専門は近世・近代日本文学。編著に『ロバート キャンベルの小説家神髄』ほか(撮影/写真部・小山幸佑)

 ロバート・キャンベルさんによる『井上陽水英訳詞集』は、「傘がない」「夢の中へ」「氷の世界」「ジェラシー」「少年時代」など井上陽水の歌詞から厳選の50作を英訳。日本文学への深い造詣から読み解かれる、陽水の奥深い世界を味わえる一冊だ。著者のロバートさんに、同著に込めた思いを聞いた。

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 たとえば、代表曲「傘がない」に出てくる傘は、誰のものなのか。1973年のヒット曲「夢の中へ」の夢とは、どこなのか。誰もが知っているが誰も本当には理解していない、甘く毒々しい井上陽水の歌詞世界。英訳という作業を通過することでその秘密の一端が開示されるのが本書だ。

 著者のロバート・キャンベルさんが陽水さんの歌詞の英訳を始めたのは、大病を患った病床でのこと。生と死の狭間で、病室の天井を眺めていたら、ふと陽水さんの歌詞が浮かんだのだという。

「消灯時刻直後の病室で『青い闇の警告』を思い出していました。パソコンで聴いていたので別画面を立ち上げて歌詞を英語に置き換えてみたら、すっと英語になったのです」

 しかしその後は苦難の連続だった。歌の語り手が私(I)なのか私たち(We)なのかなど、日本語では曖昧に処理される点が英語においては死活的に重要になる。随所に挟まれる陽水さん本人との対話でも、作者自身も驚くような、歌詞が持っている別の顔が英語というフィルターを通して姿を現す瞬間が語られている。

「翻訳の過程は、乾物を少しずつ戻すようなイメージ。時間をかけた結果、瓶の下にたまった澱のようなものが出てきました」

 陽水さんの歌詞には日本語や日本文学の記憶のアーカイブを呼び起こす力がある。「北京 ベルリン ダブリン リベリア」で始まる「アジアの純真」は、ある言葉をきっかけとして意味のしりとりのように似たものを並べていく、江戸時代の戯作にある「吹き寄せ」という方式が想起されるという。

「『ダンスはうまく踊れない』は謡曲ですね。部屋でひとり踊りながら、記憶を行ったり来たりしている。これはほぼ世阿弥の世界です」

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