「春樹作品の登場人物の多くは、なんとなく鬱々としています。具体的に乗り越えなければいけない壁に悩んでいるというより、生活は回っていて生きてはいけるが、世の中への違和感がぬぐえない。その人物に共感し、『それでいいんだ』と思うことで、自分を許し、肯定できるようになるんです」(助川さん)

 実際に、「許し」や「肯定」は癒やしの現場では重要なキーワードだという。

 自殺予防のホットラインで電話相談員を務める30代の女性はこう説明する。

「つらくて悩んで電話してくる方のなかには『もっと頑張らなくちゃ』という焦りにかられている方が多くいます。マニュアルはありませんが、そんなときは悩んでいる方の現状を認めてあげることが第一歩。現状を許容するところから、次に向かうエネルギーを取り戻せるんだと思います。余計なアドバイスよりも、今の自分でいいんだという肯定感が大切です」

 この肯定感をくれる作品として、助川さんは短編「タイランド」(『神の子どもたちはみな踊る』所収)を薦める。

「主人公の女性が旅先で、自分の傷に向き合ってそれを受け入れていく物語。喪失を認めていなかった人が傷ついていることに気づき、泣いてもいいんだと肯定できるようになる。このままでいいのか悩んでいる人には、最高の癒やしになるでしょう」

 ただ、春樹作品では共感する対象が最後に救われるとは限らない。例えば『ノルウェイの森』では、主人公「僕」と恋人関係になる直子が精神の疾患で療養所に入り、最後は自殺してしまう。「僕」に共感していたにしろ、直子に共感していたにしろ、そこに救いはないのでは?

「文学作品の登場人物に共感し、癒やされるメカニズムは、精神医学の“曝露療法”に通じるものがあります」(助川さん)

 精神医学ではトラウマなどの治療には、自身の抱えるつらい体験にあえて近づくことが有効だとされる。それが曝露療法だ。自分の体験を話したり、演じたりし、トラウマに近づくことで、不安感を消していくのだ。

「登場人物が、自分が抱えているようなつらい体験をさらに純化して追体験している。現実ではない世界で流れていくつらさに共感することで、自分の感情が客体化され、受け入れられるのです。最後は登場人物が破滅するとしても、自分の悩みも一緒に持って行ってくれたと感じます」(同)

 ポスト・フェスティウム、共感、肯定感、そして経験の客体化。なんとなく感じていた「春樹を読むと癒やされる」は本当だった。ナカムラさんは言う。

「春樹作品は、非常によくできた癒やしの文学です。たとえ社会に適応できなくても、それを肯定してくれる。気分が落ち込んでいるときには最高の薬です」 

(編集部・川口穣)

AERA 2019年6月3日号

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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