一方では同い年の選手がプロ野球や大学リーグで活躍する姿を見て、浪人生の自分との差を痛感していた。慶應義塾大学に進んだ高橋由伸や明治大学に進んだ川上憲伸らは、その代表格だ。野球の練習すらできなかったが、地元のスポーツジムでのトレーニングだけは欠かさなかった。ジム代を稼ぐため、引っ越しや警備員、工事現場などのアルバイトもした。

 中学3年生時に上原選手の担任だった澤井啓士・現寝屋川市立宇谷小学校長が振り返る。

「中学時代は学級委員としてクラスのまとめ役でした。浪人期間中にあった同窓会に参加した彼が、トレーニングがあるからと早めに引き揚げた姿を覚えています。地道に努力を積み重ねる姿はまさに雑草魂です」

 日本を代表するエースとなり、メジャーに渡ってからもその反骨心を持ち続けた。上原選手は14年にアエラの取材に応じ、アメリカで戦い続けるモチベーションについて、こう答えている。

「汚い話になりますけど、先発ピッチャーとか野手の給料がとんでもなく高いんで、僕らどんだけいい成績おさめようが絶対かなわないことなんで。でも、グラウンドに立てば全然関係ない、みんな同じ条件。絶対に負けたくないですね」

 インタビュー時は38歳だった上原選手だが、年齢による限界説も一蹴した。

「自分のピッチングはまだ完成していないし、常にまだ自分には伸びしろがあると思っています。やめた時が、自分の最高の時と思っていますから」

 21年のプロ野球人生で様々な勇気を与えてくれた上原選手。前出の常見さんは上原選手の生きざまから、中高年が学ぶメッセージがあるという。

「中高年になれば自分のやりたいことだけではなく、組織のなかでも期待される役割も変わってきます。上原選手のように置かれた場所で咲くことができるのか。AI時代になるからこそ、感情も大事になる。思いをどう表現し、周囲を動かしていくか。それも感情むき出しの上原選手から学ぶことだと思います」

(編集部・澤田晃宏)

AERA 2019年6月3日号より抜粋