2006年、WBC中国戦での上原 (c)朝日新聞社
2006年、WBC中国戦での上原 (c)朝日新聞社

 巨人でルーキー20勝の鮮烈デビュー、メジャーではワールドシリーズの胴上げ選手となった上原浩治選手が、現役引退を発表した。彼が野球人生の中で原動力としていたのは、エリートにはない「雑草魂」だ。どのポジションでも功績をあげ、与えられた役割を全うする姿は、これからの時代を生き抜く術を教えてくれる。

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 75年、上原選手は母親の故郷である鹿児島県で産声を上げ、サラリーマンの父親の転勤の影響で大阪府東部の寝屋川市の団地に移り育った。共働きの両親と2歳年上の兄の4人家族だった。母の僚子さんは自著にこう書いている。

「服は一家4人で着回し、家賃5万円の団地、それでも何の不自由もしてないのだから、贅沢したいと思わんし貧乏だとも思っていません」

 小学校に入り少年野球チームに入った兄を追いかけるように上原選手も野球を始めた。小学校の卒業文集には「甲子園に出て有名になり、プロ野球に入ってそれ以上に有名になりたいと思っている」と書いている。

 しかし、進学した公立中学に野球部はなく、陸上部に入部。野球は週1回の少年野球チームでの活動に限られた。

 高校は、スポーツが盛んな東海大学付属仰星高校に一般入試で進学。同級生にはのちにテキサス・レンジャーズで同僚となる建山義紀らスポーツ推薦の生徒が7人いた。元ラグビー日本代表の大畑大介も同級生だ。

 野球部に入部した上原選手は高2の秋から外野手としてレギュラーを獲得。高3でピッチャーに転向するが、控え投手として高校野球生活を終えた。さらに野球を続けたい──大学進学を目指すが、ここで試練が待っていた。雑草魂の原点はここにある。上原選手は自著『覚悟の決め方』にこう書いている。

「私の背番号はいつも19だった。これには理由がある。19歳の時の自分を忘れない。高校を卒業した私は大学受験に失敗し、浪人を余儀なくされた。あの一年ほどつらかった時期は、私の人生にない。あの時のことを思い出せば、どんなことにも耐えられた」

 毎日予備校に通い、勉強に打ち込んだ。大阪体育大学で硬式野球を思い切りやり、教員免許をとって大学卒業後は体育教師になろうと考えていた。

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