文中の「ぼく」は、いつもカフェやバーの暗がりに身を潜めて、本を読んだりレコードの包みを開けたり、街を歩いて女の子に出会ったりしている。

<そういえばぼくが大学生だった頃、一晩あなたの部屋に泊めてもらいたい、という女性がいた>

 なにか楽しそうだ。SNSもスマホゲームもおもしろいんだろうけど、リアルな世界にも楽しいことはありますよと、洒脱に、押しつけがましくなく、教えてくれる、現代の植草甚一。世界は美しく、人生は甘美だ。

「そのように読んでもらえるならうれしい。いまは、好きなことを見つけられない若い人も多いんだそうだから」

 そう話す小西は、月100枚もレコードを買い、映画を何十作も見、本を読み、散歩して、そして、曲を作る。それでも、<じぶんの手許にはいますぐもう一冊のヴァラエティ・ブックを編むことができるほどの単行本未掲載原稿がまだ残っている>と結んでいる。

「原稿書きはアルバイトだと思っていますから。若いころ、コンサート警備の仕事をしていて、一度断ったらもうこなくなった。アルバイトは、一度断ると次がない」

 そして「ぼくの本業はやはりミュージシャン」だと言う。

「本業には、断る理由がありますからね」

 ひとつ読んだら、また次を読みたくなる。不思議な吸引力のあるコラム。それは、どの文章にも謎があるから。ほんとうはなにが書いてあるのだろう、なにを言いたいのだろう、と。

 人は決して人間を知ることができない。時々それを忘れるだけ。文章に謎を残すのは、だから少しも謎のないことだ。(朝日新聞編集委員・近藤康太郎)

AERA 2019年5月27日号