しかし精神的な苦痛からか、誕生日に倒れ、失声症になっている。だがこのときも、皇居に引きこもることはなかった。11月6日には、天皇とともに松山市の愛媛県身体障害者福祉センターを訪れている。

「出迎えた県聴覚障害者協会長西原治見さん(中略)に、皇后さまが手話で『お会いできてとてもうれしいです』と話しかけられた。西原さんが、皇后さまの体を気遣って『がんばって下さい』と答えると、にっこりほほ笑まれたという」(「愛媛新聞」93年11月7日)

 皇后は、声を失っても手話で人々と会話を続けることで、危機を乗り越えたのだ。またしても言葉の力が発揮されたのである。

 95年1月に起こった阪神・淡路大震災でも、天皇と皇后の現地での振る舞いが右派から批判を浴びた。「日本を守る国民会議」の代表委員を務めていた江藤淳は、「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない」などと述べている(「皇室にあえて問う」、「文藝春秋」95年3月号所収)。

 しかし天皇と皇后は、昭和期に美智子妃が主導する形で確立され、平成になってあらわになったスタイルを変えようとはしなかった。宿泊を伴う定例の行幸啓では右派による提灯奉迎にこたえつつも、天皇の隣には常に皇后がいた。二人は全国各地の福祉施設で、そして被災地で時としてひざまずき、「市井の人々」に同じ目線で語りかけたのである。

 その人数を累積すれば、おびただしい数にのぼる。行幸啓を重ねれば重ねるほど、政府や議会を介在せず、天皇や皇后と一人ひとりの国民が直接つながる関係が強まったのだ。天皇と万単位の人々がひとつになる昭和の「君民一体」とはちがい、今度は一対一の関係で、天皇と「市井の人々」がひとつになる。これをミクロ化した「国体」の強化と言い換えてもよいだろう。(文中敬称略)(放送大学教授・原武史)

AERA 2019年4月29日-2019年5月6日合併号より抜粋