昭和天皇の在位60年に当たる86年11月には、皇居前広場で提灯奉迎が復活した。88年には、昭和天皇の名代として皇太子夫妻が全国植樹祭に出席するため訪れた高松市のホテルでも、提灯奉迎が行われた。

 右派にとっては、人々から仰ぎ見られ、高みから提灯を振る天皇こそ理想の天皇であった。だが彼らの期待に反して、こうした天皇像が平成に定着することはなく、それとは正反対の天皇像が定着してゆくのだ。

 その姿が初めてあらわになるきっかけとなったのが、1991(平成3)年6月に長崎県の雲仙・普賢岳で起こった大火砕流である。

 天皇と皇后は、7月に被災地を日帰りで訪れた。災害の直後に被災地を二人で訪れたのは、これが初めてであった。テレビのニュースには、被災者が収容された島原市の体育館で、天皇と皇后が二手に分かれてひざまずき、同じ目の高さで一人ひとりに語りかける映像が繰り返し流れた。

 これは60年代から福祉施設で美智子妃が率先して行い、皇太子がならったスタイルにほかならなかった。昭和期には天皇と皇后の陰に隠れて見えなかった「平成」が、初めてあらわになったのだ。

 93年になると、昭和天皇と香淳皇后が住んでいた吹上御所に代わる新御所の建設を機に、「皇室バッシング」というべき現象が生まれた。宮内庁職員を自称する「大内糺(ただす)」という人物は、こう述べている。

「本来、ご皇室にとって皇后陛下は、あまり意味のある存在ではない。ご公務はもちろん、大抵の儀式も天皇陛下がおいでになれば事足りる。(中略)それなのに、最近では国際親善の場面にとどまらず、あらゆるところにご夫妻として参加されるようになってきているのである」(「皇室の危機」、「宝島30」93年8月号所収)

 ここには右派の本音が透けて見えている。彼らにとって、常に天皇に寄り添う皇后の姿は、目ざわり以外の何物でもなかったのだ。

 皇后は、この年の10月20日の誕生日に際して、「事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます」「事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません」などと反論する文書を公表した。言葉に対しては言葉で反論するという姿勢を見せたわけだ。

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