そればかりか、ここでも政治やメディアが風潮をあおっている。政権は隣国やマイノリティーにひどく冷淡で、閣僚は「ナチスに学んだら」と言い放ち、首相に共鳴する与党議員は「生産性」などという尺度を持ち出してLGBT(性的少数者)に悪罵(あくば)を吐く。そうした言説を大手出版社の雑誌が掲載し、書店にはヘイト本や自国礼賛本の類が山積みにされている。

 そんな時期に相模原の重度障害者施設に入り込み、19人を殺害した施設の元職員・植松聖(29)は逮捕後、次のように供述したと報道された。

<ヒトラーの思想が降りてきた><障害があって家族や周囲も不幸だ><障害者の安楽死を国が認めてくれないので、自分がやるしかないと思った>

 犯行から垣間見える差別と憎悪の臭い。同時に事件や犯罪は、時代や社会の空気を一変させることもある。1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件や99年に起きた山口県光市の母子殺害事件はまさにそうだった。

 神戸の連続児童殺傷事件は、遺体を切断するという猟奇性や犯行声明を発する劇場性に加え、加害者が14歳の未成年だった衝撃にメディア報道が過熱し、少年犯罪の厳罰化を進める大きな契機となった。光市の母子殺害事件もまた加害者が未成年であり、当初の無期懲役判決が死刑判決に覆された。従来は犯行の態様などを総合考慮した上で「やむを得ない場合」にのみ適用された死刑が、「特に酌むべき事情」がなければ適用される方向へと刑事司法が舵を切ったとも指摘された。

 冷静にデータを読めば、日本は少年犯罪や凶悪犯罪が増えているわけでもなく、むしろいずれも減少傾向を示し続けている。これも「平成」という時代のひとつの真実であったのに、同じ時代に一貫して進められてきた厳罰化。それは日本社会に拡散する差別や憎悪につながる排他や不寛容の風潮とどこか通底し、まるでその象徴かのようにオウム元教祖ら13人が処刑されて「平成」という時代は幕を下ろそうとしている。2度に分けて13人の死刑を一斉に執行するというのも、戦後日本で前例のない大量処刑劇だったのに、そのことへの懐疑の声はほとんど聞こえてこない。

 では、次の時代はどのような情景が日本社会に広がるのだろうか。差別と憎悪、排他と不寛容の風潮は、世界がそうであるのと同様、残念ながら当面は衰えそうな気配がない。ならば、さらに陰鬱な歪みと臭いをまとった事件が起きてしまうのではないか──そんな予言めいたことを書けば、かつて世紀末や終末思想を煽った者たちと同列になってしまいそうで戸惑いも覚えるけれど、不吉な予感はどうしても消すことができない。(文中敬称略)(ジャーナリスト・青木理)

AERA 2019年4月15日号より抜粋