トップアスリート、否、「トップトップアスリート」としての経験知豊かな言葉を、いわば「語り部」のようにこれからも発信を、と平尾さんは言う。

「神戸を拠点としながら、研究活動の一環として日本全国の学校やチームを行脚する。そんなイチロー選手の姿を勝手に夢想しています」

「神戸は特別な街です、僕にとって。恩返しって何をすることなんですかね」

 最後の会見でそう話したイチロー。その神戸に、イチローからの恩を痛切に感じている人がいる。神戸市長田区の大正筋商店街振興組合前理事長で、茶販売店「お茶の味萬」の伊東正和さん(70)だ。

 長田地区は阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた。進まない復興。被災者を苦しめる特有のマイナス思考や孤独。そんなとき、イチローの姿が次の挑戦への気力につながっていたと伊東さんは言う。

「何かを毎日続けることの大切さを、その姿で教えてくれた。あきらめかけてしまいそうなときに、そっと背中を押してくれた。被災者にとって、その姿は元気の源であり、宝です」

 1999年には同商店街で開催された復興イベントに、イチローからサイン入りバットを贈られた。心残りは、商店街入り口に05年に設置したオリックス選手の手形とメッセージの中に、イチローのものがないことだ。

「仰木彬監督の手形の隣に、イチローさんの手形とメッセージも置きたい。これは私の死ぬまでの願いであり希望です」

 伊東さんにイチローに期待する次の姿を聞いたが、「何だっていいんです」ときっぱり。今後も被災者の元気が出る形で、自分の道を進んでいってくれたら。彼が決める道ならば。

 本当は、現役を続けてほしかった。でも、いまは納得している。イチローがそう決めたのなら、それでじゅうぶん。

「イチローは人の心にすばらしい種をまいた。それはイチローがこの先何になろうと、変わらない。今度は私たちが、それを自分の中の畑でどう育てていくかが大切。そう思います」(編集部・小長光哲郎)

AERA 2019年4月8日号より抜粋

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小長光哲郎

小長光哲郎

ライター/AERA編集部 1966年、福岡県北九州市生まれ。月刊誌などの編集者を経て、2019年よりAERA編集部

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