地下鉄サリン事件では具合の悪くなった乗客たちが地上に運び出され、救急車で搬送された/1995年3月20日、築地駅付近で (c)朝日新聞社
地下鉄サリン事件では具合の悪くなった乗客たちが地上に運び出され、救急車で搬送された/1995年3月20日、築地駅付近で (c)朝日新聞社
【地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人】高橋シズヱさん(72)/地下鉄サリン事件で、霞ケ関駅の助役だった夫の一正さん(当時50)を亡くした。代表世話人を引き受け、被害者参加人としても多くの裁判に出廷。裁判への参加や傍聴は500回を超える(撮影/写真部・片山菜緒子)
【地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人】高橋シズヱさん(72)/地下鉄サリン事件で、霞ケ関駅の助役だった夫の一正さん(当時50)を亡くした。代表世話人を引き受け、被害者参加人としても多くの裁判に出廷。裁判への参加や傍聴は500回を超える(撮影/写真部・片山菜緒子)
地下鉄サリン事件をめぐる広瀬元死刑囚らの主な裁判(AERA 2019年3月25日号より)
地下鉄サリン事件をめぐる広瀬元死刑囚らの主な裁判(AERA 2019年3月25日号より)

 地下鉄サリン事件から24年が経ち、昨年7月には教団幹部13人の死刑が執行された。地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人の高橋シズヱさんはかつて、死刑判決を受け呆然とする広瀬健一元死刑囚の母親に「大丈夫ですか?」と声をかけ、手を重ねたという。

【写真】高橋シズヱさんはこちら

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 広瀬元死刑囚が法廷でみせた誠実さや、息子を案じて裁判を見つめる母親の姿は、被害者である高橋さんの心にも響くものがあった。だがそれでも、広瀬元死刑囚が「なぜ地下鉄サリン事件という犯罪に手を染めたのか」という理由や動機は、「絶対に理解はできない」と語る。

「どんなに理路整然と手記に書かれても、サリンをまくことが人々の救済になるなどという教義を受け入れた広瀬の内面は、理解をしようと思ってもできるものではない。正直、理解をする必要も感じません。犯罪の動機を研究する学者などには必要なことかもしれませんが、遺族がそれを担うことはないし、そこまでのエネルギーはありません」

 遺族にとって、死刑囚の死刑執行はひとつの「区切り」にすぎない。オウム真理教の無差別テロによって家族の命を奪われた傷が癒えることはない。昨年9月、死刑執行後初めて「地下鉄サリン事件被害者の会」の会合が開かれた。弁護士がスクリーンに13人の死刑囚の顔を映し出し、改めてその人物像などを話していく時間があったが、参加者の中には目を背ける人もいたという。

「林泰男(元死刑囚)の乗っていた路線の被害者が多いので、林の顔が映し出されると、画面から目を背ける被害者はいました。個々の死刑囚に対しては、やはり憎しみが消えることはないのです」

 高橋さんは、各地での講演などを通じて、今でも「事件の後」を語り続けている。18年2月からは、公安調査庁のホームページに、被害にあった夫の一正さん(当時50)のカルテや死体検案書の画像をアップして、事件の生々しさを伝えている。「被害者の会」の会合には、大学生にも来てもらい、高橋さん自身の経験を話しているという。昨年3月には上智大学新聞学科の学生が、高橋さんのドキュメンタリー映像を撮影するなど、直接事件を知らない大学生にも高橋さんの「言葉」は届いている。

「事件から24年もたつと、どうしても現実的な感覚はなくなってしまいます。だからこそ、ただオウムの危険性を説いて、『やっと死刑になりました』で終わってはダメだと思う。私が事件を経験して見えた生き方や、人生観、人と支え合うことの尊さなどを話すことで、若い人にも何かを感じ取ってほしい。これまで72年間生きてきた私の人生の一部分でも、ヒントにしてもらえたらうれしいですね」

 高橋さんは24歳の時に夫の一正さんと結婚し、結婚24年目を記念した旅行の話をしていたころ、事件の被害にあった。それから今年で24年。地下鉄サリン事件実行犯の死刑が執行されてから、初めて迎える3月20日でもある。「やはり昨年までとは違う気持ちですか」と聞くと、おだやかにこう答えた。

「違わないです。いずれ死刑は執行されるものだったし、これからの人生で、私が進む方向に影響を与えるものではないですから。むしろ、13人の死刑がいつ執行されるのかを考えなくていいわけですから、もっと人生が前に進むことはあるかもしれませんね」

(編集部・作田裕史)

※AERA 2019年3月25号より抜粋