この日集まった人々と、アルバムを片手に当時を振り返る遠藤伸一さん(中央)。小さなプレハブに入りきらないほどの人が集まった(撮影/川口穣)
この日集まった人々と、アルバムを片手に当時を振り返る遠藤伸一さん(中央)。小さなプレハブに入りきらないほどの人が集まった(撮影/川口穣)
14時46分の地震発生時刻、かつての自宅跡地で手を合わせる遠藤伸一さん。3体の地蔵は子どもたちを思ってつくった(撮影/川口穣)
14時46分の地震発生時刻、かつての自宅跡地で手を合わせる遠藤伸一さん。3体の地蔵は子どもたちを思ってつくった(撮影/川口穣)

 地震発生の時を知らせる長いサイレンが、街中に鳴り響いた。14時46分。木工作家の遠藤伸一さん(50)は今年も、宮城県石巻市の自宅跡地で、当時の避難所仲間やボランティアら50人ほどと手を合わせた。

【子どもたちを思ってつくった3体の地蔵…】

「伝えることはいつも一緒です。守ってやれなくてごめんな。怖かったよな。ごめんな」

 遠藤さんは震災で、当時13歳、10歳、8歳だった3人の子どもたち全員を亡くした。震災の翌日、避難所からやっとの思いで自宅があった場所までたどり着くと、冷たくなった8歳の次女・奏(かな)ちゃんを抱いた母の姿があった。間もなく、13歳の長女・花さんも崩れた自宅のなかで見つかった。10歳だった侃太(かんた)君を見つけるまでは、と踏ん張っていたが、10日ほどして遺体で見つかった。

「侃太が見つかったときに思ったのは、あぁ、これで俺も死ねるなってこと。それでも死ななかったのは、見守ってくれた人、寄り添ってくれた人がいたからです」

 避難所で3日後、帰宅できなくなっていた妻の綾子(りょうこ)さんと再会した。そのときも遠藤さんをひとりにしないようにと必ず誰かがそばにいてくれた。過酷な環境のなかでも笑顔を絶やさず、泥だらけになりながら活動するボランティアの姿にも勇気づけられた。そうしているうちに思ったという。

「うちの子らは、生きたくても生きられなかった。紙一重で生き残った俺が生き続けなくてどうすんだ。ここで首つったりしたら、子どもたちにぶっ飛ばされる」

 あれから8年。遠藤さんは毎年、自宅の跡地に建てたプレハブで、震災当時同じ避難所で過ごした仲間やボランティアらとともに3月11日を過ごす。今年はあいにくの大雨。それでも、午前中から多くの人が足を運んだ。

「3月11日は、これだけの人が寄り添ってくれていることを再確認する日です。あの日以来、人とのつながりのなかで何とか生きてきた。そのことに改めて気づくことができるんです」

 遠藤さんはひとり来るたび、いすと食べ物をすすめ、感謝の言葉をかけていた。帰る人がいると、ずぶぬれになりながら見送る。そんな様子を見て、当時同じ避難所で遠藤さんらと過ごした相澤充さん(43)は言う。

著者プロフィールを見る
川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

川口穣の記事一覧はこちら
次のページ
子どもたちの同級生の姿に…