【岩手県釜石市】寺崎幸季さん(20)/釜石に戻った際には、修学旅行生などを相手に語り部活動もしている。お笑いは今も大好き。一人暮らしする家は新宿にある劇場への通いやすさで選んだ(撮影/写真部・小原雄輝)
【岩手県釜石市】寺崎幸季さん(20)/釜石に戻った際には、修学旅行生などを相手に語り部活動もしている。お笑いは今も大好き。一人暮らしする家は新宿にある劇場への通いやすさで選んだ(撮影/写真部・小原雄輝)

 岩手県釜石市では、震災当時2926人いた小中学生のうち、99.8%にあたる2921人が津波の難を逃れた。残念ながら5人が亡くなったが、市全体を大きく上回る生存率は「釜石の奇跡」と呼ばれ、防災教育の成功例とされた。

 寺崎幸季(ゆき)さんも津波を逃れたひとり。当時、小学校卒業を間近に控えた12歳。あの日は同級生6人と海岸で釣りをしていた。海が割れたかのように波が引くのを見て、授業や祖母の言葉を思い出した。「津波てんでんこ」。家族にも構わず、すぐに高台へ避難すること。渋滞する車列を乗り越え、山へ逃げた。

 街が流されるのを呆然と見るしかなかった。3日後に家族と再会したが、津波の光景は彼女の心に大きな傷を残した。間もなく、PTSDの診断を受けた。

 大好きなお笑いが支えだった。携帯の電波が入ると、真っ先に大ファンだったNON STYLE石田明さんのブログを開いた。「こんなときだからこそ」と、石田さんは毎日ネタをアップしていた。自然と笑顔になれた。

「憧れの人が手を差し伸べてくれている。私も頑張らなきゃ」

 こんなふうに周りを元気にしたい。中学生になった寺崎さんは、友人たちとお笑いライブを企画する。吉本興業が協力してくれ、小学校の体育館に元避難者たちが集まった。震災直後は途方に暮れる避難者であふれた体育館が、笑い声に包まれた。

 自分も周りを笑顔にできた。いつしか、もっと釜石のためになにかしたいと思うようになった。高校生になった寺崎さんは、具体的なアクションを起こす。仮設住宅での生活が始まって3年が経ったころ。本来の供与期限は過ぎているが、さらに延長が決まっていた。でも、引っかかることがあった。友人たちや大人はみな、こう言う。

「“仮設”に帰る」「今日、うちの“仮設”に遊びに来ない?」

 誰も仮設住宅を、「家」と呼んでいなかった。

「長く住むのに家と思えないのは悲しい。仮設に住んでいたことをイヤな思い出にしたくない」

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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