植村さんの消息が途絶えると、日本中が大騒ぎになり、84年4月には国民栄誉賞も受けた。なぜ、これほど注目されたのか。登山誌「山と溪谷」で追悼特集を手掛けた神長幹雄さんは言う。

「まず“時代”です。日本初のエベレスト登頂や当時未開拓に近かった極地の冒険。植村さんが駆け抜けたのは、誰もが理解できる形で“未知の冒険”ができた最後の年代だったでしょう」

 植村さん以来、日本人のエベレスト登頂者は延べ200人を超え、晩年目指した南極も今やツアーで訪れることもできる。逆に現代の最先端とされる冒険は、その分野に興味がなければ理解しがたいもの。植村さんはある意味、時代の寵児だった。

 二つ目は、植村さんの人柄だ。

「植村さんは俺が俺がと前に出る人ではなく、必ず一歩引く人だった。右肩上がりの時代に、“日本人の美徳”のようなものを持ち続ける姿勢が支持されたんだと思います」(神長さん)

 東京・板橋の乗蓮寺にある植村さんの墓には、草野心平による追悼詩が刻まれている。

「地球には もう彼はゐない けれども生きてゐる 修身に化けて 植村直己は 私たちの中に 生きつゞける」

 没後35年。墓碑銘の通り、植村さんは多くの人の心のなかにいる。現代の登山家の心にも。2013年、登山界のアカデミー賞と言われる「ピオレドール賞」を受賞した花谷泰広さんもそのひとりだ。小学生のころから植村さんの著書に接してきた。

「不法就労しかり、植村さんのエピソードはいい意味で“ぶっ飛んで”います。そうまでして夢に向かう姿、そして現地の生活につかって誰とでも仲良くなる人間性に惹かれていきました」

 大学時代、マッキンリーに登った花谷さん。登頂を目前に控え、日記の最後にこう書いた。

「何が何でもマッキンレー、登るぞ」

(編集部/川口穣)

AERA 2019年2月18日号

著者プロフィールを見る
川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

川口穣の記事一覧はこちら