1984年1月下旬、マッキンリーのベースキャンプで取材に答える植村直己さん(右)。ベースキャンプでは、雪洞づくりの練習や装備の最終確認を行った。左の2人は大谷さんに同行したテレビクルー(写真:大谷映芳さん提供)
1984年1月下旬、マッキンリーのベースキャンプで取材に答える植村直己さん(右)。ベースキャンプでは、雪洞づくりの練習や装備の最終確認を行った。左の2人は大谷さんに同行したテレビクルー(写真:大谷映芳さん提供)

 日本人初のエベレスト登頂、世界初の五大陸最高峰登頂、犬ぞりによる極地冒険。国民栄誉賞も受けた冒険家・植村直己さんが厳冬のマッキンリーに消えて、35年が経つ。

「ずっと長い旅に出ているような感覚です。いつかふっと帰ってくるような……」

 没後35年を機に取材に応じてくれた植村直己さんの姪・小川直子さんはこう話す。直子さんは植村さんの妻・公子さんの兄の娘で、植村さんと血縁はない。しかし、子どものいなかった植村さんは、直子さんを娘のようにかわいがった。

「すごさを見せない普通のおじさんでした。でも冒険の話になると、イキイキした瞳でいろんなことを教えてくれた。とってもおもしろくて、大好きでした」

 1984年2月1日。植村さんは北米最高峰マッキンリー(正式名デナリ、6190メートル)登頂を目指し、ベースキャンプを発った。半日ほど同行して見送ったのが、テレビディレクターで登山家の大谷映芳(えいほう)さん。

「まぁ、のんびりやってきますよ。食料も2週間分あるし」

 植村さんはそう言って大谷さんと別れ、山頂を目指した。

 2月12日、43歳の誕生日当日、植村さんは登頂に成功。冬季単独登頂は史上初の快挙だった。しかし、翌13日の無線交信の後、植村さんは消息を絶つ。遺体は、今も見つかっていない。

 大谷さんは20日、捜索のためヘリで4200メートル地点に降り立ち、植村さんの雪洞を発見した。中には装備の一部と日記が残されていたが、植村さんの姿はない。日記の最後は2月6日。「何が何でもマッキンレー、登るぞ」と力強く書かれていた。

 出発前のインタビューで、植村さんはこう話している。

「絶対に生きて帰らなくちゃいけないというのが、山でも冒険でも、非常に大きな現代の哲学のひとつだと思うんです」

 しかし、植村さんは帰らなかった。大谷さんには後悔がある。出発前、大谷さんは植村さんとある約束を交わしていた。

「無事に下山したら、そのあと撮影も兼ねて一緒に登ろうと約束していました。ひとりだったら途中で帰ってきたかもしれない。僕ら取材班がいたから、登らないと帰れない意識にさせたんではと……」(大谷さん)

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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