浜矩子「公僕でなければ、日本の官僚たちは一体何僕なのだろう」

連載「eyes 浜矩子」

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 経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。

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 日本の統計は細かくて網羅的で精緻だ。筆者はずっとそう信じてきた。商売柄、実際に他の国々や国際機関の統計を多々扱ってきた。だから、日本の統計が細かくて網羅的だというのは実感だ。だが、だから精緻だというのは思い込みだったようだ。

 考えてみれば、逆にあの細かさと網羅性がずさんさの証明だったのかもしれない。まともにやっていれば、とてもあんなに詳細な統計は作れない。適当にごまかしていたからこそ、あの精緻さの権化のような体裁を整えられた。きっとそうなのだろうと納得出来てしまう。

 実は、日本に比べればはるかに大ざっぱな他の国々の統計の方が、正直に作られているのかもしれない。無理なものは無理。出来ないことは出来ない。そのスタンスでやっているから、粗っぽい数字しか出て来ない。だが、信頼性は結構高い。それが真相だったか。

 なぜ、こういうことになるのか。どうも、それは何時のころからか、公僕が公僕でなくなってしまったからではないかと思う。公すなわち国民・市民に尽くすために存在する。それがお役人さんたちだ。まともな近代的民主主義体制なら、そのはずである。だが、日本では、この辺が次第に怪しくなって今日にいたっているのではないか。

 公僕でなければ、日本の官僚たちは一体何僕なのだろう。政僕か。彼らは政治家に仕える者たちと化しているのか。モリカケや忖度を想起すれば、そのように思える。はたまた官僕か。官僚たちはお互いに仕え合っているのか。彼らにとって、いまや、お互いの身の安泰こそが一番大切なことなのか。統計の不正集計を意図的に隠蔽してきたのだとすれば、そうも思える。

 彼らが政僕化したり官僕化しているとすれば、それは結局、彼らが僕僕だからだ。僕僕主義者は僕ちゃんすなわち自分が一番かわいい。だから政治におもねったり、お互いにかばいあったりすることになる。僕僕は、公僕にはなり得ない。

AERA 2019年2月11日号

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浜矩子

浜矩子

浜矩子(はま・のりこ)/1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。前職は三菱総合研究所主席研究員。1990年から98年まで同社初代英国駐在員事務所長としてロンドン勤務。現在は同志社大学大学院教授で、経済動向に関するコメンテイターとして内外メディアに執筆や出演

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