転機となったのは東日本大震災。大自然の脅威をまざまざと見せつけられた。地震によって物流が途絶え、コンビニから食料品が消え、大勢の人が帰宅難民に。東京という大都市の脆弱さを思い知った。家冨さんは移住を決断。住み慣れた東京を離れ、目指した土地が遠野だった。農業ボランティアや限界集落の支援に関わったのち、16年に「NCL」に出会う。

 その後、家冨さんは、NCL事務局の仕事と並行して、遠野駅前の寂れた歓楽街「親不孝通り」の空き店舗を借り、「トマトとぶ」というユニークな名前のスナックをはじめた。

「誰でもふらっと立ち寄れて、お酒を飲んで一人になれる。肩書も何も必要とせず、それでいて、見知らぬ人同士がつながることができるスナックという場所が魅力的だったんです」

 現在、家冨さんは遠野市中心部でNCLが運営するカフェと、元食堂だった古い一軒家を改装したオープンスペースの運営にも関わっている。いずれの場所も、地元の人と外からやってきた人との交流の場にもなっている。

「今は事務局の仕事が忙しく、スナックは閉めていますが、私が私らしくいられる場所という意味で、渋谷もスナックもコミュニティーカフェもつながっています。多様な生き方が尊重される居場所を遠野に作りたいんです」

 NCLのプロジェクトがスタートして2年。3年間は遠野市の「地域おこし協力隊」の委嘱を受ける格好だが、すでに起業して地域の経済に根付いたプロジェクトもある。遠野産ホップを使ったクラフトビールの製造、販売を手がける遠野醸造の代表取締役・太田睦さん(60)は、元大手電機メーカーの研究者。第二の人生を目指すべく早期退職をして、新たな生業を探していた。そこでビール醸造家にならないかというNCLの募集に出合う。米国では小規模なクラフトビールの醸造所を「クラフト・ブルワリー」と呼ぶ。

「ビール醸造家への応募が最も人気が高かったのです。経験は不問でした。クラフトビールは誰でもつくれるし、コストを含め起業するには規模がちょうどいい。地元の原料を使うことが条件だったので、地域にも馴染みやすかったですね」

 実は遠野は1963年から国内ホップを栽培する名産地。遠野市は以前から「ホップの里からビールの里へ」を合言葉に、遠野産ホップを使用したクラフトビールの誕生を待ち望んでいた。全く知識がなかった太田さんは、ビールの醸造を独学で学んだ。全国30カ所のブルワリーをめぐり、都内のビアパブで3カ月、接客の修業を経験。58歳で単身、川崎から遠野に移住。醸造免許を取得し、目指したのは、出来立てのビールをその場で飲めるパブを併設したコミュニティーブルワリーをオープンさせることだった。

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