●本人自身の肉声で録音収録、後代へ伝承する必要がある

「原爆がいかに非人道的か。人間が虫けらのように殺された。それを知らしめないといけないんだと、話を聞くなかで身に沁みていくわけです」

 舩山さんの心を動かしたのは、番組を企画した先輩記者、伊藤明彦さんの存在だ。

「被爆者の『声』の記録・無編集の保存を主の、一部分の放送を従の目的とした作業」。伊藤さんは、のちに自著『原子野の「ヨブ記」』で、企画の狙いをそう説明している。だが放送開始から約半年で佐世保局へ異動となる。引き継いだのが舩山さんだった。舩山さんはその時、伊藤さんの執念に触れた。

 伊藤さんは入社してまもなく、ある高齢の女性を取材した。幕末から明治にかけて浦上で起きた最大のキリシタン弾圧「浦上四番崩れ」の最後の生き残りだった。数年後に亡くなった。「さいごの被爆者が地上を去る日がいつかはくる。その日のために被爆者の体験を本人自身の肉声で録音して、後代へ伝承する必要があるのではないか。被爆地放送関係者の歴史にたいして負うた責務ではないか。この作業にさいしょに示唆をあたえたのはおばあさんの死です」(『原子野の「ヨブ記」』)

 執念の凄まじさを物語るのが担当を外れた後だ。70年、NBCを退社。退職金で購入した録音機を肩に、北海道から沖縄まで被爆者を訪ね、取材を始めた。日中でも日の差さないアパートに暮らし、早朝は肉体労働、夜は飲食店で働き、昼間取材に歩く。8年間で1千人の「声」を収録。2千人に取材を申し込み、半数に断られた。

●被爆2世も核の被害者、伝えていく必要がある

 筆者は80年に初めて東京で伊藤さんに会っている。木造アパートの6畳一間にオープンリールのデッキをデンと置き、ハサミと接着用テープを手に、録音テープの編集に没頭していた。収録した「声」の中から特に印象的な話をカセット(一部オープンリール)にし、89年から92年にかけて、公共図書館、大学・高校の図書館など計944カ所に、1万3千余巻を寄贈。1千人の「声」を元に、広島被爆前日の45年8月5日から9月初旬に至る約1カ月間の出来事を、284人の被爆者の「声」で構成する壮大なドキュメンタリー「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」を制作。CD9枚を1セットとして全国の公共施設に納めた。それが2006年。記者時代の32歳で自ら企画した番組「被爆を語る」から38年。伊藤さん、70歳の年だった。この間も、NBCの番組は後輩の記者たちによって引き継がれてきた。現在の担当者、米村仁士記者(37)はこう話す。

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