平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)/1975年、愛知県生まれ。北九州市出身。99年、『日蝕』で芥川賞受賞。渡辺淳一文学賞受賞作『マチネの終わりに』が映画化され、来秋公開予定(撮影/岡田晃奈)
平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)/1975年、愛知県生まれ。北九州市出身。99年、『日蝕』で芥川賞受賞。渡辺淳一文学賞受賞作『マチネの終わりに』が映画化され、来秋公開予定(撮影/岡田晃奈)

 夫を事故で亡くし、うちひしがれていた里枝を、夫が別人だったという衝撃の事実が襲う。夫であったはずの男はなぜ過去を変えたのか……。新刊『ある男』に込めた思いを、著者の芥川賞作家・平野啓一郎さんに聞く。

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 平野啓一郎さんの新刊『ある男』は人と人との関係を根底から揺さぶる小説だ。突然の事故によって夫を亡くした里枝は、生前に夫が言っていた「家族には絶対に連絡しないでほしい」という禁を破って連絡する。やってきた夫の兄は夫の写真を見て別人だと言う。いったい夫は誰なのか? 里枝から相談された弁護士の城戸を主人公に物語は進んでいく。

「人生はスタート時点の問題が大きいと思うんです。自分がもし、『こんな親からは絶対に生まれたくなかった』というような親から生まれたとしたら、どうだろうと考えたんです。ぜんぜん違う人間として生きたいという気持ちを抱くんじゃないかと思って、そのようなところから物語が膨らんでいきました」

 愛する人の過去がすべて嘘なのなら、自分は相手の何を見ていたのか。「愛にとって、過去とはなんだろうか?」は作中の城戸の言葉だが、この小説のテーマでもある。

「過去はあまり安定的なものではないというのは『マチネの終わりに』からのテーマです。簡単に変わってしまうこともあるし、政治的に変えようという人もいるし、わからないことも、本人が忘れていることもあります。だから、良い思い出はかけがえがない。一方で、自分をものすごく拘束してしまって可能性を狭めたり、社会から疎まれるようなこともある。嫌な過去は忘れるか、そこに自分なりの新たな意味を見いだせるといいなと思いますね」

 里枝の夫=Xを探す過程で、城戸自身は在日3世であるという自分の出自と向き合うことになる。これも平野さんがずっと取り組んできたテーマに通じるものである。

「カテゴライズするから、対立が先鋭化していくんですよね。人には複数のアイデンティティーがあって、単一のカテゴリーに回収できない。回収した途端にそうでないカテゴリーの人との対立が激化してしまうし、対立させようとする人たちにつけ込まれてしまう。一人の人間の中の多様性がコミュニケーションの可能性を開いていくと思います」

 それは、愛の問題にも通じるという。

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