その後、翁長氏は、那覇市議、県議、那覇市長、そして2014年からは知事と、着実に政治家としてステップアップしていく。だが知事になり、それまでの姿勢を180度転換して辺野古移設反対の立場で政府と対峙するようになると、ストレスが日増しに増えてきた。

「翁長は家のドアを開けたら仕事のことを一切家族には見せないタイプ。でも知事になり公舎に私と二人住まいになると、可哀想なくらい苦しそうな表情を見せることがありました。知事になる前は自民党の沖縄県連幹事長を務めたぐらいなので、政府が何をしてくるのかは翁長の想像の範囲内でしたが、沖縄のことを考えたら妥協せずに戦わないといけない。考えることが多いためか常に眠りも浅く、少しの音ですぐに目が覚める毎日でした」

 皮肉にも、入院してそれがなくなった。

病院のベッドでは、私がゆすってようやく目を覚ますぐらい深い眠りでした。翁長が、『ゆっくり眠れるってこんなに幸せなんだ』と言うのを聞き、病気になって初めて自分を許したんだと可哀想でした。こうしたストレスが膵臓がんの引き金になったのだと思っています」

やるべきことはやった

 倒れるまで政府と戦い続けた翁長氏がよく言っていたのは、「ウチナンチュー(沖縄の人)はマグマを抱えている」だった。

「それぞれの立場や生活があるから基地問題にも意見が分かれるけど、ウチナンチューはみんな心の中では沖縄がこのままでいいはずがないと思っている。その静かな怒りをマグマと表現したのです。翁長は最後、自分の力をすべて使ってやるべきことをやったと話していました。あとは(玉城)デニーさんに、基地問題にぶれずに取り組んでほしいと願っています」

(ジャーナリスト・桐島瞬)

※AERA 2018年10月22日号より抜粋