「いまは月1回のペースで開いています。昨年12月に東京の築地本願寺で開催したときは750人もの方が見に来てくださいました」

 若者はもちろん、意外にも旧来の「お勤め」に親しんできた高齢者からも好評だったという。

 そもそも仏教の「法要」とは、「釈迦の『教えの要』に出合うこと」を表す。一般には四十九日など、死者を弔うイメージが強いが、結婚式や花まつり(釈迦の誕生を祝う式典)なども法要に含まれる。

「皆さんが、もっと気軽にお釈迦さまの教えに触れられる機会や場所を増やしたい。テクノ法要はその入り口にすぎません」

 朝倉さんが属する浄土真宗の聖典「正信偈(しょうしんげ)」は、もともと庶民が読むものではなかった。

「それを500年前に蓮如上人が、当時の流行歌のメロディーをつけて皆で歌えるようにして広まりました。時代ややり方は違いますが、その思いは私も同じです」

 仏道修行とは、物事の本質を見極めることだという。

「例えば竹は、真下から見れば円、横から見れば線に見えます。同じように人も出来事も、見る方向によって悪くもなれば良くもなる。もし負の感情に支配されそうになったら、一面だけに執着していないか、振り返る時間を持つといいかもしれません」(朝倉さん)

 それを誰の導きによって、わたしたちは見いだすのか。

 悲しみ、絶望、不安に襲われたとき、人は救いを求める。そこに手を差し伸べてくれる一人が仏教者だ。だが、仏教の効用は、悩み苦しんだときだけにあるのではない。僧たちはそれを伝えようと、社会との接点を探っている。

 その社会には背負うものが異なる人たちがともに暮らしている。地域の個々人の実情に合わせた柔軟な対応も、公的な性質を持つ宗教だからできることだ。古来から「地域のコミュニティー」の調停役として、行政の網にかからない人たちに寄り添う役割も寺に求められている。(ライター・秋山謙一郎、澤田憲)

AERA 2018年10月15日号より抜粋