スクープとなった復活劇… 「小林麻美」とは何者だったのか? (1/5) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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スクープとなった復活劇… 「小林麻美」とは何者だったのか?

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延江浩AERA

東京・渋谷の公園通りの渋谷パルコ(1979年) (c)朝日新聞社

東京・渋谷の公園通りの渋谷パルコ(1979年) (c)朝日新聞社

「クウネル」(2016年9月号)でサンローランを着る。同誌で「小林麻美の試行錯誤」連載中(撮影/写真部・掛祥葉子)

「クウネル」(2016年9月号)でサンローランを着る。同誌で「小林麻美の試行錯誤」連載中(撮影/写真部・掛祥葉子)

1977年、資生堂「マイピュアレディ」ポスター。モデル=小林麻美、撮影=レナード・デ・フランチェスコ

1977年、資生堂「マイピュアレディ」ポスター。モデル=小林麻美、撮影=レナード・デ・フランチェスコ

【許諾番号:ID000005489】

【許諾番号:ID000005489】

 松任谷由実が日本語詞をつけた「雨音はショパンの調べ」で鮮烈な印象を残し、1991年に突如引退した歌手・モデルの小林麻美。復活劇の舞台裏を、TOKYO FM「村上RADIO」プロデューサーで、『愛国とノーサイド』著者の延江浩が書く。

【「クウネル」の表紙にサンローランのタキシードで登場した小林麻美】

*  *  *
 マガジンハウス「クウネル」編集長の淀川美代子は皇居前・半蔵門へ急いでいた。そこにはモデルエージェンシー社長、岩崎アキ子が待っていた。

 ふと、ジーンズにジャケット姿の女性がコンビニに入るのを見かけ、長身ですらりとした後ろ姿に、もしやと思ったが、明確にはわからなかった。その女性からは予想していたオーラが感じられなかったからだ。

「やっぱり25年間のブランクがあるのかなって。でも、本番に向けて何回か打ち合わせを重ねていくうちに、どんどん綺麗に、どんどん生き生きとしていった。ごく内輪で進めたプロジェクトだったんですけど、私は小林さん、すごいな、さすがだってずっと思っていました」(淀川)

 それから半年後。小林麻美は、1991年の引退以来の撮影本番にサンローランのタキシードで臨んだ──。

●アイドルらしからぬ聖少女 違和感がたまらなかった

 72年、東芝レコードから「初恋のメロディー」でデビューした麻美を、クリエーティブディレクターの杉山恒太郎は「深窓の令嬢が、突然、ブラウン管に登場した、という印象だった」と言う。「そこ(テレビ)に出てはいけない人が出てきたっていうのかな。生活感が皆無で、透明感が際立ち、そこに惹かれながらも違和感がたまらなかった。まるでサガンや倉橋由美子の小説に出てきても不思議じゃない聖少女のよう。単なる金持ち、とかではない、上流階級の女の子。ずっと見ていたい、けれどその場所にはいて欲しくはない(笑)というアンビバレントなイメージでした」

 麻美は神田カルチエラタンの文化学院出身。与謝野晶子、鉄幹らが大正期に創設し、菊池寛、北原白秋、芥川龍之介と錚々たる面々が教壇に立った。「自由」「知性」「芸術」を旗印に、作家では金原ひとみ、作詞家では安井かずみ、俳優では高峰秀子、中嶋朋子、ファッションでは菊池武夫、稲葉賀恵と多くのクリエーターが輩出している。

「文化は自分で選んで入ったんです。暁星やら慶応、青学とか、そんな私学で何かやらかしてしまった子どもが集まっていた。クレージーというか、全員びっくりするような恰好でやってくる、ヒッピーみたいな学校でした」(麻美)


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