五十嵐ゆりさんは現在、NPO法人「レインボースープ」の活動と東京の新事業の準備に追われ、福岡と東京を忙しく行き来する生活だ(撮影/加賀直樹)
五十嵐ゆりさんは現在、NPO法人「レインボースープ」の活動と東京の新事業の準備に追われ、福岡と東京を忙しく行き来する生活だ(撮影/加賀直樹)

「レズビアン同士で助け合える老人ホームがあったらいいよね」

 五十嵐ゆりさん(44)が、友人と共に漠然とした不安をボヤいたのは約6年前、ちょうど「アラフォー世代」に差し掛かった頃のことだ。同性愛者の老人ホームを描いた映画「メゾン・ド・ヒミコ」が理想だった。国内外では性的少数者に横たわる多様な課題への理解や認知が進み始める一方、自分自身は中高年に差し掛かることへの不安を抱いていた。「当事者である自分には、今、社会を変える何かができるかも」。そう模索した五十嵐さんが踏み出した道が、NPO法人「レインボースープ」の設立だった。福岡市を拠点に、性的少数者関連の情報発信・啓発活動を目的とした団体だ。

 ただ、最初は本名を名乗れなかった。「何が起こるのか想像できず怖かったんです」と五十嵐さん。行政と広く関わり、活動の場が広がるにつれ、腹をくくって本名を名乗るように。同じころ、性的少数者がいきいき働ける職場づくりを目指すNPO法人「虹色ダイバーシティ」(村木真紀代表)の東京スタッフにも加わり、アクティビストとしての生活が始まった。

 五十嵐さんが自身の性的指向を最初に自覚したのは、出身地である東京の下町に住んでいた中学2年生のころだ。相手は1年後輩の女子生徒。校庭を見下ろすたび、数百人の中でも彼女をすぐ見つけてしまう。彼女に会えた日には日記に「◯」、遠くから見えただけの日は「△」、会えなかった日は「×」を付けていた。そしてそんな自分をひどく嫌悪した。

 生き方を見つめ直そうと、東京から遠く離れた沖縄の大学に進学。卒業後、8歳年上の同性パートナーを追って福岡へ。情報誌編集者として駆け回る日々が続いた。ただ、同棲したパートナーの存在は、職場では「友達」と偽り続けてきたという。

「家賃も折半して経済的、なんて言って。どんなふうに伝えれば相手に疑われないか、いつも準備していました」(五十嵐さん)  

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