舞台制作を指揮していても、プロデューサーと呼ばれるのを嫌った。肩書はあくまで、演出家。晩年に活動拠点とした会社も「浅利演出事務所」だった=2017年8月撮影 (c)朝日新聞社
舞台制作を指揮していても、プロデューサーと呼ばれるのを嫌った。肩書はあくまで、演出家。晩年に活動拠点とした会社も「浅利演出事務所」だった=2017年8月撮影 (c)朝日新聞社

 劇団四季の元代表の浅利慶太さんが85歳で亡くなった。演劇界にいくつもの大変革を起こした巨人の人生を、朝日新聞で長く演劇を担当した記者が振り返る。

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 中曽根康弘元首相のブレーンを務めるなど、政財界への幅広い人脈で知られた浅利さんは、保守的な文化人と見られがちだ。だが、その生涯を振り返ると、経済的に自立した劇団を作り、豊かな演劇文化を次世代へ手渡すという夢に挑み、それを実現させた「革命家」の姿が浮かび上がってくる。

 劇団四季は1953年、慶応大学の学生だった浅利さん、俳優の日下武史さんら10人によって結成された。それから65年。四季は、俳優・スタッフ約1300人が所属し、全国に専用劇場が六つ(7月時点)、年間公演数3千回以上の巨大組織に成長した。

 主導した浅利さんには二つの顔があった。演劇青年と凄腕の経営者。特にずば抜けた後者の能力が、四季をテレビ出演などの収入に頼らず「芝居だけで食べる」劇団にした。

 局面を大きく変えたのは83年のミュージカル「キャッツ」。無期限ロングランのために専用劇場を建て、コンピューターでのチケット販売を導入した。

「日本初」尽くしの挑戦は成功し、以来、四季はミュージカル劇団として拡大を続ける。ロンドンやブロードウェーのヒット作を次々と輸入し、日本の観客の身近な楽しみとして定着させた。

 こうした派手な公演と並行して、文化の東京一極集中を壊そうと全国津々浦々への巡演や、子どものための無料公演なども息長く続けてきた。

 強烈なリーダーシップは、時に劇団の内外で摩擦も引き起こしたが、オーディションや数多い現場を通して、大勢の俳優やスタッフに活躍の機会を作り、力を伸ばした功績は大きい。

 翻訳ミュージカルで劇団を安定させた浅利さんは90年代以降、自身の中の「演劇青年」に突き動かされるように、創作への取り組みを再び加速した。

 代表例が、「ミュージカル李香蘭」(91年)に始まる「昭和の歴史三部作」。シベリア抑留が題材の「異国の丘」(2001年)、インドネシアを舞台にBC級戦犯を描く「南十字星」(04年)と、オリジナルミュージカルによって、戦争を語り、日本とアジアとの関わりを描いた。

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