桂歌丸さんの知られざる落語家としての矜持「大喜利の歌丸で終わりたくない。落語に帰る」 (1/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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桂歌丸さんの知られざる落語家としての矜持「大喜利の歌丸で終わりたくない。落語に帰る」

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矢内裕子AERA
桂歌丸さん(撮影/長谷川唯)

桂歌丸さん(撮影/長谷川唯)

「今日は歌丸師匠の取材は無理かもしれません」

 劇場に入るとすぐに、そう告げられた。

 2016年の年末、若手落語家によるユニット「成金」による、年に一度のお祭「大成金」の取材に行ったときのことだ。

 数日前に退院したばかりの歌丸さんは、当日、高座にあがれるかどうかも微妙とのことで、取材はできなくても仕方ないな、と思っていた。

 覚悟をしながら、舞台袖から成金メンバーの高座を聞いていると、出口に呼ばれて、「今! 今なら歌丸師匠、インタビュー、できるそうです!」とのこと。

 もちろん楽屋まで大慌てで戻り、「吸入器をはずすので5分だけ」という約束で、若い落語家たちへのメッセージをうかがった。

 スタッフの方々の心配そうな雰囲気から、取材を受けると言ってくれたのは、歌丸さんその人だとわかった。インタビューが始まれば、朗々として響く、大きな声だった。

*  *  *
 7月2日に81歳で亡くなった落語家の桂歌丸(本名・椎名巌)さんは、その人柄から幅広い層の人たちに慕われた。スタート時から参加した人気演芸番組『笑点』では、10年間務めた司会を2016年に春風亭昇太さんにバトンタッチしたときに「歌丸ロス」との声があがるほどだった。

 人懐っこさと人当たりの良さは、育ちによるものもあるのだろう。歌丸さんは1936年横浜生まれ。両親との縁が薄く、祖母に育てられた。

「横浜の色街、お女郎屋(じょろうや)に生まれ育ちました。とにかく坊や坊やでした」と語っている(朝日新聞「人生の贈り物」2007年年12月18日付)。

 慰安会で偶然に聞いた、春風亭柳昇の「区役所風景」に魅了され、中学3年の2学期の終わりに祖母の知り合いを通じて、5代目古今亭今輔(ここんていいますけ)に入門。「古今亭今児(ここんていいまじ)」の名前をもらう。

 しかし、順風満帆の噺家人生ではなく、落語の世界から2年間、離れていたこともあった。歌丸さんが二ツ目に昇進したのは1954年。当時の落語界は二ツ目の人数が多く、古株の人は主な寄席に出番があるが、歌丸さんたちが出られるのは年に1、2回程度。たいていは端席(はせき)と呼ばれる小さな寄席の早い時間に出ることがほとんどだった。


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