彼らは庵に来る人たちとまるで違っていた。

 討論会が終わると、国谷裕子さん似の彼女は私の持っていた空の紙コップを手に取って、「一緒に捨ててきますね」と笑いかけてくれた。性格も正常そのものに見えた。

 逆に、テーブルに置かれた何枚かのパンフレットを取ろうとした時、その前にいた男性に「これ、いいですか?」と話しかけると、男性は無視した。感じ悪いなあ、と思いながらパンフレットを集めていると、別の男性が2、3枚のパンフレットを私に渡してくれた。

●しゃべることは壮絶でも既に立ち直っている

 そうなのだ、と私は思った。これは普通の社会の縮図だ。例えば初詣でごった返している明治神宮で客を千人単位、あるいは一万人単位で区切り、その集団を観察したら、その中にキャリアウーマン風の美女が何人かいるかもしれない。愛想の極端に悪い人と親切な人もまざっているだろう。つまり、ひきこもり、という固有の母集団が存在するわけではないのだ、というのが私の得た実感だった。なぜなら、そもそもひきこもりというのは線でも円でもなく点として存在しているからだ。しかもその点がもつ色は、それぞれ全く違う。

 会場には報道機関の記者もいた。メディアは必ず取材対象をカテゴライズしなければならない。そこにある特別な属性を、世間にできるだけインパクトを与えるような表現で列挙しなければならない。

 しかし、私はそれをしようとは思わない。この「元」ひきこもりの人たちには取り立てて特徴がなかった。それが結論だ。それはつまり、誰でもひきこもりになり得る、ということに等しい。そして、彼らはしゃべっていることは壮絶でも、この会場に来ることができるだけで、もう既に立ち直っているのだ。それをそのまま伝えたい、と心から思った。

 さて、この庵を紹介して下さった池上さんの解説に移ろう。なぜ今、大人のひきこもりが問題なのか。

 池上さんによれば、ひきこもりという言葉が急速に広まり始めたのは今から20年ほど前、1990年代の後半である。その後、立ち直れなかった人々は20年の歳月を重ねた。当時20代、30代だった彼らは今や40~50代のひきこもりとなっている。

次のページ