稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。著書に『寂しい生活』『魂の退社』(いずれも東洋経済新報社)など。『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』(マガジンハウス)も刊行
稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。著書に『寂しい生活』『魂の退社』(いずれも東洋経済新報社)など。『もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓』(マガジンハウス)も刊行
もっとも大きなものは形として見えない、と。昔の言葉は深いねえ(写真:本人提供)
もっとも大きなものは形として見えない、と。昔の言葉は深いねえ(写真:本人提供)

 元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。

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 突然ですが、お習字始めました。お稽古は月に1度。きっかけは偶然の出来事から。いつもモーニングを食べに行く近所のカフェで、常連仲間のオジさんが「俺の同級生がさあ、書家なんだよね」とスマホで撮った展覧会の書を見せてくれて、おおカッコイイ! 私も書いてみたい! 習ってみたいと口走ったが運のツキ。以来オジさん宅で3人(かっこいい女先生、オジさん、私)が顔突き合わせ、筆を手に半紙に向かって5カ月になります。

 とはいえ大人の習い事だから基本は気楽なもの。知り合いのうわさ話、最近の悩み、面白かったことなどを3人でペチャクチャしゃべりまくりながらの2時間。みんな半世紀も生きてくればいろいろあります。爆笑で字が歪むこともしょっちゅう。まるで「カフェ」ならぬ「書道居酒屋」(お酒は出ないけど)。しかしそうは言っても書道です。道なのです。そこはなかなかに奥が深い。姿勢を正し、字の正面に体を置き、ひじをあげ、肩の力を抜き、しかし筆はしっかりと持って、手先で書かず体全体で書く……って、どんだけ注意しなきゃいけないことが多いんだ!

 ふと気づけば、さっきまで爆笑していたオジさんも私も無口になっているどころか息も止まってる。何しろやり直しが利かない。白い半紙に最初の筆を落とす時の緊張と言ったら。真剣勝負とはこのことです。これを当たり前にしていた昔の人の凄みを思う。

 ふとオジさんが「なんかこれってすごい贅沢な時間だよね」と言いました。俺ってさ、いつもカネのことばっかり考えてるもん。でも書いてる時って、なーんにも考えてないもんね、と。

 なるほど。確かにこれほど「役に立たない」時間ったらありません。何を目指しているわけでもない。人に見せてスゴイと言われたいわけでもない。ただ先生に叱られながら下手な字を書きまくっているだけ。無駄なことを一生懸命という究極の贅沢。そんな時間を増やしていけるのは老いの特権です。そうその先に死があればいいのだと。

AERA 6月11日号

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稲垣えみ子

稲垣えみ子

稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。超節電生活。近著2冊『アフロえみ子の四季の食卓』(マガジンハウス)、『人生はどこでもドア リヨンの14日間』(東洋経済新報社)を刊行

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