「もしも困っている高齢者に声をかけることが自然になったり、症状が出て困っていることをヘルプマークのように提示できたりしたら、認知症があることの不便さはいくらか解消できますよね。そのためには、ぼくらの中にあるかもしれない偏見を、想像力に変えることが不可欠だと思います」(同)

 事業をスタートして約1年間、全国の企業や自治体、福祉施設などを回った。認知症のVRコンテンツは6本に増えた。現在までに、約1万5千人がVRで認知症の世界を体験している。

 この日の体験会に参加した女性(74)は、夫(71)に認知症がある。
「認知症のことは勉強してきたが、疑似体験したのはこれがはじめてです。夫以外の認知症がある人の症状にも、想像力が広がりました」

 夫は音楽に陶芸、マラソンと多趣味で、体力もある。診断を受けて8年、物忘れは徐々に増えてきた。娘(46)が特に身につまされたのは、「ここはどこですか」だ。「一緒に電車に乗ると、父はキョロキョロして私たちを見ています。これからどこへ行くか、事前に説明していても、常に不安があるんでしょう」と、心中を思いやった。

「症状のことをわかっているつもりでも、理想通りにふるまえないことがあります。忙しくて『それくらい自分でやって』『どうしてできないの』と、ついきつい言葉になれば、父も『もういいよ』となってしまう。否定されるのがつらいんだと思います。けれど、家族と一緒に行動したり、誰かの手助けをした時は明るい表情です。私たちも地域の人も、認知症に想像力が持てるようになったらうれしい」

 参加者のひとり、社会福祉法人富士白苑の職員で介護支援専門員の水口眞弓さんは、地域社会の課題をこう語る。

「認知症があることを、『ご近所に知られたくない』と考えているご家族はまだ少なくありません。隠して家族で抱え込むのではなく、協力してくれる人を周囲につくっていくほうがずっといい。支援の輪が地域にも広がってくれれば」

 乗り越えなければいけない壁は、当事者ではなく、私たちの中にある。VR認知症体験会が提供するのは、気づきだ。

「認知症は100人いれば180通りの症状があると言われます。VR体験は、認知症のある人には、『もしかしたらこう世界が見えているかもしれない』という一例です。認知症があっても生きやすい社会へ向かうきっかけになってくれればと思います」(下河原さん)

(編集部・澤志保)

AERA 6月4日号より抜粋