羽生結弦、“不調の時”も報道量が減らない理由とは (2/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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羽生結弦、“不調の時”も報道量が減らない理由とは

「2連覇して仙台に『ただいま』と言えて、うれしい」「この金メダルは、みなさんの応援があったから」と羽生。あちこちから送られる声援に手を振って応えた。羽生はこの凱旋パレードで地元への感謝を示した(撮影/写真部・東川哲也)

「2連覇して仙台に『ただいま』と言えて、うれしい」「この金メダルは、みなさんの応援があったから」と羽生。あちこちから送られる声援に手を振って応えた。羽生はこの凱旋パレードで地元への感謝を示した(撮影/写真部・東川哲也)

 日本国民の誰もが知る五輪王者は、苦境の中で3月の世界選手権に出場し、ショートプログラム(SP)で首位となり、総合でも銀メダルを獲得した。

 平昌五輪シーズン最初の試合だった17年9月のオータム・クラシックでは、SPでいきなり世界歴代最高得点を更新する112. 72点を出した。翌日のフリーでは、一転、8本中5本のジャンプでミス。このときも、フリー後のほうが多弁で、感情を隠そうとしなかった。

 フリーを演じ終えた直後の氷上で「もう、しょうがねえっ」とつぶやいたことを明かした。大会運営の担当者が、報道陣に「最後の質問」と告げても、羽生自身が「あと2問」というしぐさをして質問を受け付けた。そして、「悔しさという大きな収穫を手に入れることができた。強い自分を追いかけながら追い抜いてやろうと思う」「いい時と悪い時との差が激しいのは、スケート人生での永遠の課題。ガラスのピースを積み上げて、きれいなピラミッドにするんじゃなくて、粗くてもいいから頂点まで絶対にたどり着けるような地力も必要だ」と、独特の言い回しが飛び出した。

 羽生は、他にも多くの苦境を経てきたことが何度も伝えられている。11年3月11日の東日本大震災で被災し、練習拠点のリンクが一時閉鎖。全国のアイスショーを巡り、葛藤しながら練習を重ねた。16年4月には、左足甲付近のリスフラン関節靱帯(じんたい)の損傷が見つかり、16~17年シーズンで出遅れた。難しいジャンプに挑むので、大崩れしてしまうことも珍しくなかった。

 そして、平昌五輪シーズンは、17年11月のNHK杯開幕前の公式練習で右足首を負傷して、12月の全日本選手権も欠場。18年2月、平昌五輪は、4カ月ぶりの実戦という状況だった。

 ファンは選手が苦しむ姿を見たとき、一緒に苦しい気持ちになるものだ。苦しむ姿を見聞きしたり、悔しがって涙したことを知ったりすると、その選手をぐっと身近に感じ、次の試合では一層応援したくなるだろう。


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