「96年の年初、今年何に注力して報じていくかを話し合ったとき、国際情勢を大上段に構えるのではなく、自分の人生に関心のある人が多いのでは、という話が出たのをよく覚えています」

 バブルが崩壊して5年、社会全体が内向き志向になっていた。男女雇用機会均等法施行の86年から10年、当時入社した男女が30代にさしかかり、ライフステージの変化を迎えはじめた時期でもあった。

 出世の階段を上る手前で立ち止まる女性の葛藤を取材した「女が出世に惑う時」(97年2月10日号)。均等法世代の女性が台頭する裏で、家事と育児を誰からも評価されず、アイデンティティーを求めて苦しむ主婦たちをクローズアップした「専業主婦の絶望」(97年2月24日号)。家事の分担で揉め、双方の言い分に納得できない共働き夫婦を描いた「家事離婚の危機」(98年7月13日号)。更年期の苦しみや、介護保険ができるまで女性に重くのしかかっていた介護問題も真正面から取り上げた。

 女性の視点を取り入れた記事が起爆剤になった背景には、当時の社会が男性主体でつくられていたという現実がある。東京大学名誉教授で認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長の上野千鶴子さん(69)は、時代をこう読み解く。

「男女雇用機会均等法が成立した85年こそ、女性の分断元年であり貧困元年でした。『男女雇用平等法』としてスタートした法案は、交渉の過程で『雇用平等』が『雇用機会均等』に置き換わった。日本企業は男性向けに作られた職場のルールを変えず、ごく一部の女性を総合職として参入させただけ。大多数の女性は、一般職の正社員から非正規雇用へ追い込まれていったのです」

 均等法と同じ85年に成立した労働者派遣事業法は、職業安定法により禁じられていた、間接的に人を働かせることを可能にし、その後も改正で雇用の規制緩和が進んでいく。

「均等法は、97年のセクハラ防止義務、17年マタハラ禁止など改正も考慮すると、『ないよりまし』にはなったけれど……」と上野さんは語る。それでも、女性活躍を謳う法案の背後には、別の思惑が見え隠れする。15年には女性活躍推進法が成立し、労働者派遣事業法も改正された。

「結局、女性の非正規労働者が増え、男女の賃金格差は広がっています。女性には働いてもらいたい、子どもも産んでもらいたい、ただし企業に都合のよいやり方で。女性に、『仕事も家庭も』を要求しながら、そのための条件整備は進んでいません」(上野さん)

(編集部・澤志保)

AERA 2018年5月14日号より抜粋