叔母の来日は「ジバゴの家、失意から解放」という日経新聞の記事にもつながった。ネイガウス家とパステルナーク家の関係は、今日まで続いている。

 話をピアノに戻そう。2017年7月、接触していたヴィルヘルム2世の研究家からメールが届き、私は慌ただしくドイツへ飛んだ。これまでの来歴調査の経緯を説明すると、「ずっと科学的・学問的な研究ばかりしてきましたが、この話は何かロマンがあっていいですね」と、熱い目でピアノの写真を見つめる。わずかながら手応えを感じた。諦めかけていた公文書館のひげ文字解読が進むかもしれない。微かな光が射し始めた。

 この「ユリウス・ブリュートナー」はサンクトペテルブルクの皇室に贈られたピアノと本当に同一のものだろうか? 1909~10年のヴィルヘルム2世の贈答品発注や購入記録、運搬に関する記録捜しは、まさに干し草の山から1本の針を捜すような作業だ。

 60年も密かにピアノを守り続けた女官の謎も多く、道は果てしない。

 夫が亡命した1988年6月、私たちはドイツで出会い、四半世紀以上、演奏旅行を共にしてきた。彼は、演奏活動に潤滑油を差すべく、ただいま夢のピアノと共に充電中である。

 1世紀前、ライプツィヒで生まれた1台のピアノは、サンクトペテルブルクからやがてモスクワへ、そしてハンブルク、ケルンを経て東京へ。ようやく安住の地を見つけたように、美しい音色で歌う。夫が奏でるその歌を聴きながら、足跡を辿ることが、どうやら私の新たな旅路となるようだ。(ライター/主婦・中島ブーニン・栄子)

AERA 2018年4月30日-5月7日合併号より抜粋