その後スーパーに勤めるも長続きせず、挫折はどこまでも繰り返された。それ以来、彼はずっと実家にひきこもっている。Bさんの両親は息子のためだけに生きているような子煩悩だったから、大人になった彼の面倒をよく見ている。Bさんも特に現在の状況に苦しんでいる様子はない。元妻に渡した子どもたちに対する執着も微塵もない(子どもへの執着の薄さはAさんと同様だ)。両親は時々小言を言うようだが、根本的な解決を模索しようとはしていない。出会った頃40歳前後であった彼も、今や40代半ばになっている。

 Aさん、Bさんという、一風変わったひきこもりを紹介してしまったが、2人ともたまたま私の近くにいたというだけで、彼らがひきこもりの典型例だと言うつもりはない。

 実は40歳以上のひきこもりは地方でも深刻な問題になっている。山梨県が2015年度に行った調査では、ひきこもり人口のうち40歳以上の中高年層が占める割合は60.4パーセント、佐賀県の16年度の調査では実に71.3パーセントに達した。

 しかし、Aさんたちのように、本人たちが危機感を感じず苦しんでいなければ、国のひきこもり救済制度から漏れる可能性が高い。AさんもBさんも親がこの世を去ったら生活に苦しむことになるに違いない。彼らのような緩やかな、そして高齢化していくひきこもりの人々にどう対処すべきかが、今後の課題になるはずである。

 鹿児島県では、38歳のひきこもりによるとみられる大量殺人が起こったばかりだ。こうした悲劇によって世間がひきこもりを恐れたり嫌ったりすることがますますひきこもりを追い詰めていく。彼らを犯罪に走らせないためにも、居場所をつくり、ひきこもり当事者が集まって語り合える機会を提供していく必要があるだろう。孤独の淵にいる彼らだって、本当は「世間」から認められたくて仕方がないはずなのだから。(小説家・萱野葵)

AERA 2018年4月23日号