日報の舞台、イラク・サマワ近郊で2004年3月、移動中の派遣部隊と周囲を警戒する隊員 (c)朝日新聞社
日報の舞台、イラク・サマワ近郊で2004年3月、移動中の派遣部隊と周囲を警戒する隊員 (c)朝日新聞社
陸上自衛隊の組織改編(AERA 2018年4月16日号より)
陸上自衛隊の組織改編(AERA 2018年4月16日号より)

 国民や国会から示すよう求められ、防衛相が「見つからない」と答えた文書が後から出てくる。その存在を組織内でどの地位までの人が知り、なぜそこで止まったのか。重苦しい調査が延々と続く。陸上自衛隊は「隠蔽の泥沼」に陥っている。

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 今回発覚したのは、陸自が米国主導のイラク戦争後の復興支援で「非戦闘地域」に送られた2004~06年の活動報告(日報)をめぐる問題だ。これは昨年起きた南スーダン国連平和維持活動(PKO)での日報問題と密接に絡む。そこから解きほぐす。

 話は昨年2月にさかのぼる。

 陸自が情報公開請求に「ない」と答えていた南スーダンの日報が、陸自と、陸海空自衛隊の運用を担う統合幕僚監部で見つかっていた。当時の陸自トップの岡部俊哉陸上幕僚長と、防衛官僚トップの黒江哲郎事務次官が協議。黒江氏は2月16日、陸自の日報は「個人データ」に過ぎないとして、統幕に日報があったことだけ明かしておけばいいと岡部氏に伝えた。

 ここにイラクの件が重なる。当時の稲田朋美防衛相は20日、国会で野党にイラク派遣の日報の存在を問われて「確認したが見つけることはできなかった」と答える一方、省内を捜すよう22日に指示。これに対し、陸自のさまざまな活動を分析し教訓とするため広く資料を集める研究本部(当時)から、「ない」との報告が3月10日にあった。

 話は南スーダンに戻る。3月中旬、黒江氏の判断で伏せられた陸自の日報が「実はあった」と相次いで報道された。「陸自にはない」と矛盾する答弁をしてきた稲田氏は、元検事をトップとする特別防衛監察を指示。今度は南スーダンの日報捜しが省内で始まった。

 そして今回わかったのは、その捜索でイラク派遣のほうの日報が3月27日に研究本部で見つかったのに、稲田氏に報告されないままだったということだ。

 南スーダンの日報をめぐる混乱は8月、防衛相、事務次官、陸上幕僚長がほぼ同時に辞める前代未聞の事態に発展した。一方でイラク派遣の日報はないとされ続けたが、防衛省が今年4月2日に実はあったと急に発表。「南スーダン日報問題の再発防止策の一環で、全国の部隊の文書を丹念に確認した結果」(小野寺五典防衛相)という。

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