教祖は絶対的存在で、発言に疑問を抱くのもご法度。そんな教団の掟を生真面目に守った広瀬は、次第に感性がまひし、善悪の判断力は働かず、教祖の指示を唯々諾々と受け入れた。

 教団武装化のための自動小銃の製造に関わるが、「悪いことをしている」という意識はなかった。それより、指示通りに物事が進まない状況について、「(教祖に)迷惑をかけたという罪悪感」を覚えていた。

 サリン事件の指示を受けた時も、「本能的な驚きや恐怖」は生じたものの、迷いはなく、「指示通りしっかりやろう」と思った。当時の彼の心には、「こんなことをやっていいのか」という疑問や、「やりたくない」などの感情が入り込む余地はなかった。

 あるいは、親との葛藤、人間関係の悩み、居場所探しなどの果てに、オウムにたどりついた者もいた。都会育ちもいれば、田舎育ちもいた。母子家庭の出身者もいれば、大家族の出もいた。何の悩みも迷いもなく一生を終える者はいない。出会いのタイミング次第で、誰もが引き込まれる可能性があった、と思う。そして、いったん入ると、教団の価値観で心を支配されてしまう。ここにオウムのようなカルトの怖さがある。裁判では、そうした問題の本質を知る材料がたくさん提示された。

 一方で、麻原がまともに事実に向き合わないうえ、強制捜査開始後に、最側近の教団幹部が暴漢に殺害されてしまったため、いくつかの事件の動機などに疑問は残った。

 私がもっとも残念だったのは、坂本弁護士一家殺害事件の警察の捜査の問題が解明されなかったことだ。

 事件当初の神奈川県警の動きは極めて鈍かった。捜査の指揮を執る刑事部長は、一家が自発的に失踪した可能性を強調。県警幹部からメディアに、「坂本さんは内ゲバにやられたのでは」などのデマ情報が流された。

●寝室から多数の血痕、オウムのバッジも落ちていた

 現場となった坂本一家の寝室には、肉眼で見ても分かる暴力の痕跡がいくつもあった。麻原公判で鑑識担当の警察官は、寝室から多数の血痕が検出されたと証言。警察が初期に事件性を認識していたことは明らかだ。ではこの鑑識結果などの捜査情報は、警察内部でどう扱われ、誰がどのように捜査にブレーキをかけたのか。麻原弁護団には、ここを追及してもらいたかった。

 現場にオウムのバッジが落ちているなど、オウムの犯行を疑わせる状況証拠はあった。その後、実行犯の一人が坂本弁護士の長男の遺体を埋めた場所を示す地図を警察に送りつけた。一応の捜索は行われたが、遺体は発見されなかった。地下鉄サリン事件後の捜査の中では、まさに地図が示した場所から見つかったのだが……。

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