岡崎自身は、この作品の舞台となった場所がどこなのかを明言していない。ただ、河口にほど近いよどみのある川。石油化学工場のガス抜き炎と煙突。無機質で個性のないたたずまいの団地群。こんな風景は、日本全国の都市の周縁に必ずと言っていいほど現れる。

 現代を生きる私たちは、この少しひなびた、退屈な風景を表向きは遠ざけながらも、懐かしい記憶の中の母胎のように内包しているのではないか。そして、こうした風景には「私」の生きる意味について、私たち自身を孤独に思考させる力がある。

 2017年に出版され話題を呼んだ磯部涼の著作『ルポ川崎』は、日本有数の工業都市で生きる人々の姿をドキュメント形式で描く。磯部はこの本の中で前出の書き出し部分を引用し、「River’s Edge」であり「川縁」であるリバーズ・エッジは川崎という街と似ていると書く。

「セックス、暴力、ドラッグなど、人間の欲望をむき出しにした街という点で、リバーズ・エッジは、川崎のアンダーグラウンドで生きる人々の日常と共通していると思います」

『リバーズ・エッジ』が単行本化された翌年の95年。戦後50年の節目にあたるこの年を、戦後史の転換点だと考える人は多い。ライターの速水健朗は、著書『1995年』でこう分析する。

「当時の日本人が抱いていた、『何が起きても不思議ではない』『これまでの常識が通用しない時代』という漠然とした予感に、震災とオウムという二つの厄災が重なることによって、『変動期の到来』という強い印象が突きつけられたのだ」

 政治や社会ばかりではない。

 95年には「ウィンドウズ95」の発売がインターネット時代の始まりを告げ、テレビではアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が始まって、週刊少年ジャンプで連載されていた「ドラゴンボール」が終了。自意識過剰な主人公が世界や社会のイメージを持てないまま「セカイの果て」とつながってしまうような「セカイ系」と呼ばれる作品が量産されるようになる。ハルマゲドンが噂され、やがて時代は「世紀末」へと突き進む。

 毎日が祝祭のような非日常の80年代。バブルの崩壊と共に、祭りの後の静けさにも似た寂しさと「シラけ」がヒタヒタと社会を侵食していった90年代。バブルに浮かれた80年代を象徴する街が渋谷や原宿だとしたら、岡崎京子が『リバーズ・エッジ』で描いた90年代の社会そのものが、都市の周縁の吹きだまりに生きる若者の「日常」そのものだった。

 引きこもりや不登校、LGBTなど今日の若者が感じる「生きづらさ」を予言したかのような作品となったことを、岡崎本人は意図していたのだろうか。(文中敬称略)(ノンフィクション作家・中原一歩)

AERA 2018年2月26日号より抜粋