69年、米ベル研究所のウィラード・ボイル(故人)とジョージ・スミスは、光で半導体上に発生させた電気をまとめ、半導体素子表面に沿って移動させるCCDの概念を提案。同研究所のマイケル・トンプセットは73年、この概念をもとに初のCCDイメージセンサーを実現させた。スミスとトンプセットも今回の受賞者だ。だがフィルムカメラや撮像管に比べると画質は全く不十分だった。

 その後10年ほどで、画質は確かに向上した。だがここでも課題は残った。例えば、像が尾を引いたように残る「残像」や、光が入らないのに電気信号が出る「暗電流」、強い光を当てると画像がにじむ「ブルーミング」などの「画像のキズ」となる現象を抑えることができない。当然、「フィルム並み」の画質を求める消費者の心はつかめなかった。だが、これらを解決へと導く少年が日本に現れる。

 寺西は中学時代に科学雑誌の「核融合特集」を読み、「無尽蔵でクリーンなエネルギー」にあこがれる科学技術少年だった。東京大学理学部物理学科から大学院へ進み、当時の教授で核融合の権威だった吉川庄一につこうとした。しかし、突然、吉川は東大を辞め、古巣の米プリンストン大学へ戻ってしまう。寺西は「いきなり、目標がなくなったんです。悩んだ末に一歩下がって基礎物理にいった」と振り返る。

 東大大学院で師事したのは、当時ノーベル賞の呼び声も高かった理論物理学者の久保亮五だ。目に見えないミクロの理論で、電気伝導や磁石など、物質のマクロな性質を説明しようとする「統計力学」という分野を独自に開拓した有名教授だ。

 ところが、2年間の修士課程を終えたところで寺西はこう考え、方向を変えた。

「研究室はできる人ばかりで『こうはなれんな』と思うばかり。やっぱりモノづくりだ」

 修士論文は久保にほめられたものの、博士課程には進まず、78年に日本電気(NEC)に入社。志望理由は「半導体とコンピューターがあるから」だった。配属されたのは中央研究所電子デバイス研究部。「イメージセンサーの開発」がテーマとなった。だがこの時、この分野について、寺西の知識はゼロだ。

 当時は日立も松下電器も東芝もNECも、イメージセンサー開発でしのぎを削っていた時代。何も知らない新人が来ても、丁寧に理論と技術を教え、勉強させた。さらに学会に行けば、会社の垣根を越え、技術と夢を語りあい、教えあう風潮もあった。

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