上御霊神社/京都市上京区。宗教法人としての正式名は御靈神社。応仁の乱勃発の地。鳥居の脇にある「応仁の乱勃発地」の石碑(右)(撮影/MIKIKO)
上御霊神社/京都市上京区。宗教法人としての正式名は御靈神社。応仁の乱勃発の地。鳥居の脇にある「応仁の乱勃発地」の石碑(右)(撮影/MIKIKO)
千本釈迦堂/京都市上京区。正式名は大報恩寺(撮影/MIKIKO)
千本釈迦堂/京都市上京区。正式名は大報恩寺(撮影/MIKIKO)
本堂の中の柱に残る刀傷の説明をする陸奥賢さん(撮影/MIKIKO)
本堂の中の柱に残る刀傷の説明をする陸奥賢さん(撮影/MIKIKO)

 人の世むなしい(1487)応仁の乱は、一体どうしてむなしかったのか。学生のときにはわからなかった大人の事情がゆかりの地をめぐると見えてきた。

【柱には応仁の乱のときのものと伝えられる刀傷がある 千本釈迦堂】

 応仁の乱を生き生きと描いた『応仁の乱』(呉座勇一著、中公新書)が売れている。誰もがその名を知っている応仁の乱だが、これまで、その知名度の割には注目されてこなかった。誰と誰が戦っているのか、わかりにくいからである。複数の人々の思惑が交錯して、白黒はっきりしない。英雄らしき英雄もいない。戦国時代や幕末に比べて、どこか地味なのである。

 応仁の乱は、将軍に次ぐ最高役職である管領・畠山家の家督争いから始まる。守護大名の細川勝元と山名宗全がそれぞれ違う側の味方についたことで両家の派閥争いにも発展した。また将軍・足利義政の継嗣争いも加わり、争いは京都だけでなく全国へ広がっていく。

 歴史的にも大きな事件なのだが、人間関係が複雑すぎてなかなか頭に入ってこない。わからないときは現地に行け。というわけで、まち歩き案内を生業(なりわい)としている観光家の陸奥賢(むつさとし)さんにガイドをお願いし、実際に京都市内にある応仁の乱ゆかりの地をめぐってみることにした。

 最初に訪れたのは、応仁の乱勃発の地、上御霊神社(正式名・御靈神社)である。1467年、畠山政長と畠山義就がこの境内で戦った。静かな森に囲まれた上御霊神社は政争に巻き込まれて憤死した人々の魂を慰める神社だ。皮肉にもそこで11年も続く争いが始まってしまった。祭られている神々はどのような気持ちで見守っていたのだろうか。

 応仁の乱のせいで上京区の町は焼け野原になってしまい、当時の面影を伝えるものはほとんど残っていない。だが、唯一焼かれずに残ったのが千本釈迦堂(大報恩寺)である。京都市最古の木造建造物の本堂(国宝)の柱には、応仁の乱のときのものと伝えられる刀傷がある。

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