沖縄高校は当時、別の学校法人が運営。生徒の定員割れが続き、校舎の老朽も著しかった。名城理事長はこう振り返る。


「経営危機だった高校の運営を引き受けたときは、よほどの自信家と見られましたよ」

 周囲は反対したが、理事長の意志は揺るがなかった。83年に経営を一手に引き受け、沖縄尚学高校に校名を変更。自前の講師陣を教員に加え、校舎も建て直した。経営は好転し86年に附属中学校も開校。91年に学校法人尚学学園の設立認可を得た。

甲子園優勝を「宣告」

 沖縄尚学高校野球部は2008年のセンバツで2回目の全国制覇を果たした。このときも事前に「判示」があったという。前年秋の大会でセンバツ出場が決定的となった試合の直後、元保護者の女性が理事長室に駆け込み、「宣告」した。

「私には見えます。間違いなく全国優勝します。ただし、私の言う通りにしてください」

 女性は理事長室の絨毯とカーテンの色を赤に替えること、理事長はネクタイや下着を赤に、理事長の長男で附属中学校長の政一郎副理事長(59)は茶色に統一することに加え、校歌も替えるよう進言。自分で作詞作曲した新しい校歌も持参していた。

 理事長、副理事長は指示通りに着衣を改め、理事長室の絨毯やカーテンも張り替えた。しかし校歌は、おいそれとは変更できない。窮余の策として、甲子園に出発する際、野球部員全員がカセットに合わせ、女性が持ち込んだ「校歌」を合唱。甲子園の試合当日は、講堂に設置した大スクリーン前で合唱部員に歌ってもらった。

 副理事長はこう振り返る。

「人事を尽くして天命を待つ、という心境でした」

 甲子園での最大の関門は、東洋大姫路と対戦した準決勝。8回裏に集中打で一挙4点を入れて逆転するまで、0対2で負けていた。だが、スタンドで応援していた副理事長は当時、「どこで逆転するのかな」と思いつつ観戦していたと明かす。

 この元保護者の女性(75)は本誌の取材に、私はユタではない、と断ったうえで「小さいときから霊感が強いので、周囲からは神人と呼ばれることはあります」と話した。

次のページ