AERA dot.

満鉄時代の給与 日本の3倍と好待遇だった

このエントリーをはてなブックマークに追加
野村昌二AERA#鉄道

元満鉄社員 田伏正七さん(99)18歳で渡満、技術者として鉄道の保守・点検などに携わった。戦後は、満鉄の元同僚と都内で電気屋を始め、建物のネオンサインのデザインを手がけた(撮影/野村昌二)

元満鉄社員 田伏正七さん(99)18歳で渡満、技術者として鉄道の保守・点検などに携わった。戦後は、満鉄の元同僚と都内で電気屋を始め、建物のネオンサインのデザインを手がけた(撮影/野村昌二)

●ソ連侵攻で自害覚悟

 列車には多くの著名人や有名人が乗ってきた。彼らは「知名士」と呼ばれたが、忘れられなかった一人に東条英機首相がいた。43年ごろだったと記憶している。東条首相は奉天駅から乗車するがお付きは3人。冨さんはコンパートメント(特別室)まで案内した。鞍山という駅で降りたが、彼が下車した後、コンパートメントに行くと、英国のたばこの空き缶が残されていたという。

「仕事は楽しかったです。夢は駅長になることでした」(冨さん)

 ところが、こうした満州での平安な暮らしは、一変する。45年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って満州に侵攻してきたのだ。その時、満ソ国境の街、綏芬河にいた爾見ちと子さん(92)は妊娠5カ月だった。

「自害するしかないと思いました」

 と振り返る。

 当時、ソ連兵が来ると女性は強姦され殺されるといううわさがあった。どうせ殺されるのであれば日本兵に殺されたほうがいいと、玉砕を覚悟したという。

 ちと子さんは43年、満鉄で働く信吉さん(99)に嫁ぐため大陸に渡った。信吉さんとはいとこ同士。信吉さんは36年、鉄道に憧れを持っていたこともあり、満鉄で働いていた叔父を頼り、渡満。当時19歳。最初の勤務地は、牡丹江の電気区。41年には庶務助役にまで昇進した。信吉さんは振り返る。

「みんな若くて10代か20代。事務所の中は、活気があふれて楽しかったね」

 ソ連軍が街に侵攻してきた時、信吉さんは綏芬河から200キロ近く離れた場所に出張中。引っ越したばかりで知人も少ないちと子さんは、電気区長宅を頼った。そこでちと子さんは自害を決意するが、幸い列車が1両だけ出て、九死に一生を得た。

 数日後、ちと子さんは穆リン駅(現・黒竜江省穆リン市)で信吉さんと奇跡的に再会。そして8月15日、ちと子さんは泣きながら玉音放送を聞いた。生まれたばかりの長女と一家3人で、引き揚げ船に乗って日本の土を踏んだのは、46年7月。信吉さんとちと子さんに、満鉄時代の思い出を尋ねると声をそろえた。

「あっという間でした」

 いまから80年ほど前、異国を駆け巡る夢を抱いて海を渡った若者たちの、偽らざる思いだろう。(編集部/野村昌二)

AERA 2017年9月18日号


トップにもどる AERA記事一覧

   鉄道 をもっと見る
このエントリーをはてなブックマークに追加