いま日本でよく見られるリベラル批判や、あるいは社会運動や政治的意見表明そのものへの忌避感も、おおむね似た論理に支えられている。憲法9条をめぐる議論、安保法制をめぐる議論、原発をめぐる議論、それらすべてにおいて、「理想論を無責任に唱える左派vs.現実主義的な保守」という構図に落とし込む論調が強い。

 先の『反逆の神話』にはカート・コバーン、ドラッグ、ディープエコロジー、インド、禅、スローフードといったものは登場するが、パブリック・エネミーは出てこない。ラップもヒップホップも「消費文化」の一例として語られるだけだ。

 しかし、最近の社会運動は、実は理想論よりも極めて現実的で限定的な要求をつきつけるものが多くなっている。批判者の多くはこの点を見落として、従来の「お花畑的左派」の枠組みに無理やり押し込めようとしているのではないか。逆に「現実は甘くない」と言いたがる保守や右派のほうが、日本を過度に美化して現実から乖離してしまっているようにも見える。

 そうした微妙な変化が、政治的意見表明に伴う「音楽的文脈」の性質も変えつつある。前回の原稿をギル・スコット=ヘロンと中田亮の話から始めたのも、そういう意図からだった。

●権力に対抗する文化 権力が支配する文化

 劇作家の宮沢章夫によれば、サブカルチャーとは「1956年に始まったもの」であり、エルヴィス・プレスリーや太陽族やビートニク以降のカウンターカルチャーのことを指す。それが90年代なかば以降の日本ではさらにカタカナの「サブカル」として区別される。宮沢は言う。

「いい意味でサブカルチャーが持っていた政治へのかかわりと全く異質な文化が、90年代になって出てくる。それが露悪趣味を伴う『サブカル』。ただ、彼らの多くは冗談でそれを始めたと思うけど、その冗談を理解できずに『サブカル』を使う者がいる」

 ロックに関していえば、X JAPANのYOSHIKIが皇居前でピアノ演奏したのが99年だった。

「そこで天皇のあり方を問うような曲を歌えるかといえば歌えない。逆にそれがいいことなんだと、そういうふうになりましたよね。だからある種類のロックは、もう異なる音楽になっていた」

 宮沢のサブカルチャー論では、日本のサブカルチャーは新宿→原宿→渋谷→秋葉原と基軸となる都市を移動しながら時代ごとの文化的ヘゲモニーを発揮してきた。文化的ヘゲモニーとは、端的にいえば「かっこよさ」のことだ。たとえば椎名林檎は98年に過去の「新宿」的なかっこよさをメタに再解釈するスタイルで登場したが、そのあり方自体に、ある種の批評とネタを含んでいた。

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