批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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去る7月26日は、小松左京の七回忌だった。
小松は1931年生まれ。高度経済成長期に活躍した、日本を代表するSF作家である。『復活の日』『日本沈没』などのベストセラーの名は、SFに親しみのない読者でも知っていることだろう。ノンフィクションやメディア出演も多く、小松の活動は創作を超え多岐にわたっていた。70年の大阪万博に参加し、80年代には大型映画制作に乗り出し、90年の花博では総合プロデューサーも務めている。95年の阪神・淡路大震災では被災を経験し、2011年の震災と原発事故から半年ほどして亡くなった。戦後の紆余曲折を凝縮した人生だった。
彼の小説はいまでも示唆に満ちている。小松は14歳で終戦を迎えた。焼け跡が原風景で、終戦の意味をSFの手法を通して問い続けた。じつは代表作『日本沈没』もそのひとつで、この小説は彼なりの敗戦論にほかならない。日本が滅びる。その現実が明らかになったとき、政府と国民はどう対処すべきか。本当はそれこそが敗戦によって突きつけられた問いだったにもかかわらず、戦後日本はその切実さを忘れてしまった。小松はその問いを、小説のかたちでよみがえらせようとしたのである。
『日本沈没』はくしくも高度経済成長最後の年(73年)に刊行された。当時は日本の没落を描く本と受け取られたが、いま読み返すとむしろ作家の「期待」のほうが印象に残る。本作に登場する政治家や官僚は、じつに冷静で合理的で、そして豪胆である。それは彼なりの「あるべき敗戦」のすがただったにちがいない。
小松は戦後日本の虚構性を見抜いていた。だからこそ『日本沈没』も書いた。しかしそのときも日本人への信頼はけっして失わなかった。繁栄にはなんの根拠もなく、いつ壊れるかわからない。それでも日本人は生き残らねばならないし、生き残るはずだ。それこそが小松が作品に込めた希望だった。
国が滅びる。その言葉はいま73年よりもはるかに切実に響く。それなのにこの混乱はどういうことか。ニュースは嘘と醜聞と辞任だらけだ。政治家と官僚はいまこそ『日本沈没』を再読し襟を正すべきである。
※AERA 2017年8月14-21日号