一度は地上から消えた被爆の証人が天主堂正面の壁に実寸大でよみがえる。多くの観衆とともにこれに立ち会ったとき、「遺構」が訴える力に、会場から漏れる感嘆の声を聞いた。映像は、浦上のキリスト教信仰を巡る歴史の光と影や原爆投下シーン、廃虚からの再生というストーリーだった。

「遺構が残らなかったから何もできない、ではなく、残っていないことで、逆に映像化の動機が生まれました」

 そう語る酒井さんは、新たなアート作品を構想しているという。

●時代の終わりとともに明らかになることも

 戦争を知らない若い世代だからこそ、できることがある。そう思わせる例が、陸軍の「登戸研究所」の実態解明だ。

 小田急線生田駅(川崎市)から徒歩7分。現在、明治大学生田キャンパスがある小高い丘陵地に、かつてそれは存在していた。旧日本陸軍がスパイ活動や謀略といった秘密戦用の兵器などを研究・開発するために、37年に創設。存在は、一般国民には伏せられた。風船爆弾、偽札製造、怪力電波(殺人光線)、生物兵器、暗殺用毒物兵器、人工雷といった研究を行い、最盛期、11万坪の敷地に建物100棟、1千人近い人々が従事していた。

 跡地には、10年に明治大学平和教育登戸研究所資料館が建てられたが、事実の発掘が始まったのは80年代末。地元、川崎市の法政大学第二高校の生徒が、自治体運営の平和教育学級のメンバーらと調べ始めた。名簿が見つかり、本にまとめた。

 同じ頃、長野県赤穂高校の生徒たちも動きだす。戦争末期、研究所が長野県に部分的に移転していたことを知り、調べ始めたのだ。研究員も見つかった。最初は話してくれなかったが、孫の世代の高校生たちの熱心さに心を動かされ語り始める。やがて、封印されていた731部隊、石井四郎隊長が開発した水の濾過(ろか)器を確認した。

 資料館館長の山田朗明治大学教授(60)は、こう分析する。

「昭和から平成へ。一つの時代が終わり、関係者が表に出てきて話しやすくなったことが大きい」 

 戦争体験者や被爆者の話をじかに聞くことは、近い将来、確実にできなくなる。だが、戦争を知らない世代の取り組みは多様だ。先端技術を使って、戦争を一定の距離感から俯瞰し、事実を検証、発掘しようという視点も生まれてきた。「継承」の可能性は間違いなく拡大していると言えるだろう。(ノンフィクション作家・高瀬毅)

AERA 2017年8月14-21日号